
モラッティとインテル・ミラノ|怪物ロナウドから三冠まで、Intelじゃない方のインテルの話
インテリスタの不動産論|第一弾
モラッティとインテル・ミラノ|怪物ロナウドから三冠まで、Intelじゃない方のインテルの話
※ここで言うインテルは、イタリア・ミラノのサッカークラブ「FCインテルナツィオナーレ・ミラノ」(Inter Milan)。半導体メーカーのIntel(インテル)とは別物である。
マッシモ・モラッティは、石油で財を成した男だった。
そのオイルマネーを、湯水のようにインテルへ注ぎ込んだ。
ロナウド(ロナウド・ルイス・ナザーリオ・ジ・リマ)。
ロベルト・バッジョ。
アルバロ・レコバ。
クリスティアン・ビエリ。
当時の世界最高クラスの選手たちが、次々と黒と青のユニフォームを着た。スタジアムは沸いた。インテリスタは夢を見た。
私も、その一人だった。きっかけは、ブラジルから来た怪物ロナウドである。
先に結論。モラッティは1995年にインテル・ミラノを買い、私財で約15億ユーロを投じたとも言われる会長だ。ロナウド、バッジョ、ビエリを集めても、スクデットにはなかなか届かなかった。報われたのは2010年、モウリーニョの三冠である。
金で選手は買えた。でも、勝つことは金だけでは買えなかった。これは、その話だ。
インテル・ミラノとは|「Intel入ってない」方のインテル。正式名称と名前の由来
念のため、最初に書いておく。
インテル・ミラノの正式名称は「FCインテルナツィオナーレ・ミラノ」。1908年3月9日、ミラノのクラブ(今のACミラン)から分かれた人たちがつくった。外国人選手も受け入れたい、という思いから「インテルナツィオナーレ(国際)」と名付けられた。だから略して「インテル」である。
パソコンに「入ってる」半導体メーカーのIntel(インテル)とは、もちろん関係ない。アメリカのインテル・マイアミも、2018年にできた別のクラブだ。愛称は、青と黒のユニフォームから「ネラッズーリ」。
マッシモ・モラッティとは|インテル・ミラノを買った石油一族の会長
モラッティ家は、ミラノで石油精製会社サラスを営む一族だ。1995年2月18日、マッシモ・モラッティは前会長ペッレグリーニから株式の過半数を取得し、インテル・ミラノの会長になった。
父アンジェロ・モラッティも、1955年から1968年までインテルの会長だった。父の時代は「グランデ・インテル」と呼ばれ、ヨーロッパの頂点に立っている。息子のマッシモは、その栄光をもう一度と考えた。
そして、金を惜しまなかった。最初の補強は、アルゼンチンから来た無名に近い若者、ハビエル・サネッティ。のちにクラブ最多出場のキャプテンになる男である。
怪物ロナウドとインテル|1997年の移籍、1998年のUEFAカップ
1997年の夏、ロナウドはバルセロナとの契約にあった違約金を払う形で、インテルに来た。移籍金は当時の世界記録だった。
何がすごかったか。
トップスピードに入るまでが、とにかく速い。
止まった状態から一歩、二歩で、もう最高速度に乗っている。今で言えばエムバペのように、大きなフェイントをしなくても、簡単なステップだけでスピードに乗る。相手はそれだけで、かわされていった。
1998年、インテルはUEFAカップの決勝でラツィオを3-0で破った。会場はパリのパルク・デ・プランス。得点はイバン・サモラーノ、サネッティ、そしてロナウド。モラッティが会長になって最初の9年間で取れた大きなタイトルは、結局これだけだった。
ロナウド、バッジョ、ビエリのトライアングル
この3人が前線に並んだときのインテルは、本当に楽しかった。ケガが多く、3人がそろう時間は長くなかった。それでも、そろったときの攻撃は、勝ち負けを忘れて見ていられた。
1998年4月、ユヴェントス戦のマーク・ユリアーノ
同じ1998年の4月。優勝を争うユヴェントスとの直接対決で、ロナウドがペナルティエリアの中でユリアーノに倒された。PKは与えられず、インテルは0-1で敗れた。
おかしい、と思っていた。
気のせいではない、とも思っていた。
でも当時は、それを証明することができなかった。
2002年5月5日、ラツィオ戦のロナウドの涙
1999年11月と2000年4月、ロナウドは同じ右膝を二度壊した。長いリハビリを経て戻ってきたのが、2001-02年のシーズン。監督はエクトル・クーペルだった。
インテルは首位のまま最終節を迎えた。相手はラツィオ。勝てば、1989年以来のスクデットだった。
結果は2-4の逆転負け。ユヴェントスが優勝をさらい、インテルは3位まで落ちた。最後に決めるべき簡単なゴールを外したロナウドは、交代してベンチに下がり、泣いていた。
ロナウドで一番忘れられないのは、あの涙である。
インテリスタの間では、この日は今も「5月5日」と日付だけで通じる。その夏、ロナウドはレアル・マドリードへ去った。
インテル劇場|勝てなくても、悔しくなかった
当時のインテルは、実力でも実績でも、ユヴェントスとミランにかなり引き離されていた。
だから、勝てなくても不思議と悔しくなかった。
楽しかったのは、負けている試合を、バタバタしながら引き分けに持ち込んだり、ひっくり返したりするところだ。きれいな勝ち方ではない。最後の最後まで何が起きるか分からない。
私はそれを「インテル劇場」と呼んでいる。
主役は、後半から出てくるレコバとフリオ・クルスだった。2人がピッチに入ると、何かが起きる気がした。実際、よく起きた。
阪神ファンに近いのかもしれない。勝てなくてもいい。でも、最後まで何かを起こしてくれる。30年近くインテルを見てこられたのは、たぶんこの劇場があったからだ。
ミラノダービーの思い出|頼むから、無様な負け方だけはしないでくれ
ミランがめちゃくちゃ強かった頃、ダービーは祈るような気持ちで見ていた。勝ってくれとは言わない。頼むから、無様な負け方だけはしないでくれ。
忘れられないのが、2000年1月のコッパ・イタリアのダービーだ。アンドリー・シェフチェンコに2点を取られながら、インテルはビエリ、アドリアン・ムトゥ、そしてクラレンス・セードルフのフリーキックで3-2と競り勝った。のちにミランへ移り、ミランの顔になるセードルフが、インテルの青黒を着て決めたゴールである。
もう一つは、2009年8月29日のダービー。レアル・マドリードから来たヴェスレイ・スナイデルが、加入発表の翌日にいきなり先発し、インテルはミランに4-0で大勝した。三冠のシーズンの始まりだった。
翌2010年1月には、スナイデルが前半に退場して10人になりながら、ゴラン・パンデフのフリーキックなどでミランに2-0で勝ったダービーもある。数的不利でも勝つ。あれも立派なインテル劇場だった。
日本でインテルを見ていた頃|セリエAダイジェストと「ウチのインテル」
あの頃、日本でセリエAを見る入口は、フジテレビの「セリエAダイジェスト」だった。セリエAを「世界最強リーグ」と呼んでいた時代である。試合そのものは、スカパーで見ていた。
中継で好きだったのが、解説のジャンルカ・トト・富樫さん(富樫洋一さん)だ。インテルを愛した富樫さんは、インテルを「ウチのインテル」と呼んだ。勝っても負けても、身内のことのように話す。その言い方が好きだった。
富樫さんは2006年2月、取材先のエジプト・カイロで急逝された。54歳だった。インテルが長いトンネルを抜けようとしていた、まさにその年である。その後のスクデットも、三冠も、富樫さんの「ウチのインテル」で聞きたかった。
だから「ウチのインテル」というフレーズは、勝手ながら私が継承している。
2006年、カルチョポリ|違和感の正体
2006年、カルチョポリが明るみに出た。審判の割り当てなどをめぐる一連の不正が発覚し、イタリアサッカー全体を揺るがした。ユヴェントスはセリエBへ降格し、その年のスクデットはインテルに与えられた。
長年インテリスタが感じていた違和感の背景に、実際の問題が存在していた。
そしてモラッティは、ユヴェントスからズラタン・イブラヒモビッチを獲った。あの巨体。あの技術。あの傲慢なまでの自信。インテルは2010年までセリエAを5連覇した(2005-06年は裁定による優勝)。
インテリスタは、また夢を見た。今度こそビッグイヤーへ届く、と。
それでも届かなかった。
インテル・ミラノの三冠(2010年)|モウリーニョとモラッティの最後の夢
最後にモラッティが呼んだのが、ジョゼ・モウリーニョだった。
2009-10年。セリエA。コッパ・イタリア。UEFAチャンピオンズリーグ。
三冠。イタリアのクラブとして初めてのことだった。
チャンピオンズリーグの決勝は、2010年5月22日、マドリードのサンティアゴ・ベルナベウ。相手はバイエルン・ミュンヘン。2-0、2点ともディエゴ・ミリートだった。
日本時間では夜中である。私は自宅のテレビで見ていた。
あの夜、私は泣いた。
純粋な喜びだけではなかった。モラッティが注ぎ込んだ莫大な金。世界最高の選手たち。長年の理不尽。何度も届かなかったヨーロッパ。それらが全部、あの夜に報われたような気がした。
ほとんど眠らないまま、翌朝はいつも通り仕事に出た。
ミリートより、マルティン・デミチェリスを覚えている
あの決勝は、ミリートが2点を決めた試合として語られる。
でも私の目に残っているのは、ミリートとマッチアップしていたバイエルンのアルゼンチン人センターバック、デミチェリスだ。かなり高い位置まで上がってきて、その分ミリートに自由を与えてしまった。ミリートを好きにさせた試合だった。
ミスター、モウリーニョという監督
モウリーニョは、腹が据わった監督だった。負けている試合では、後半にセンターバックを最前線に上げて、力ずくで点を取りにいく。そういう采配がうまかった。
一方で、本人が欲しがって獲った選手は、あまり使えなかった印象がある。完璧な監督ではない。それでも、曲者ぞろいのチームを一つにして、三冠まで連れていった。
若いマリオ・バロテッリがインフルエンザで「試合に出たくない」とピッチに座り込んだとき、モウリーニョがその背中をさすっていた。厳しいだけの人ではなかった。見ていて、少し笑ってしまった。
好きな選手|イブラヒモビッチ、サネッティ、フリオ・クルス
好きな選手は、全員である。それでも何人か挙げるなら。
一番能力が高かったのは、イブラヒモビッチ。大きな体で足元がうまく、一人で試合を決めてしまう。純粋な能力なら、この人だと思う。
やはりレジェンドは、サネッティ。すごかったのはキャプテンシーだ。あの頃のインテルは、個性の強い曲者ばかりだった。その選手たちを、長い間まとめ続けた。数字には残らない、一番の仕事だった。
通好みで挙げるなら、フリオ・クルス。ゴール前の落ち着きが好きだった。ただ、ミスターには好かれず、出番が減っていったのが本当に気の毒だった。
長友佑都とインテル|一番のベストマッチ
日本人として忘れられないのが、長友佑都だ。2011年、モラッティの時代の最後にやって来た。
来たばかりの頃は、左サイドの前にサミュエル・エトーとスナイデルがいた。2人が相手を引きつけてスペースを作ってくれたので、長友はそこを走り、活躍できた。
私の中のベストマッチは、2015年10月31日、サン・シーロでのローマ戦である。当時のローマには、モハメド・サラーとジェルビーニョ(ジェルヴェ・ヤオ・クアシ)がいた。ローマは長友のサイドを穴と見て、2人をまとめてぶつけてきた。それを長友は、完全にシャットアウトした。
後半、ローマのカウンターでエディン・ジェコにボールが出たところを、猛然と追いかけて後ろから刈り取った。試合はガリー・メデルのゴールで1-0。派手なゴールではなく、守備で勝った試合。一番好きな長友である。
インテル・ミラノの黄金期はいつだったのか
記録で言えば、父アンジェロの「グランデ・インテル」と、マッシモの時代の終盤、2006年から2010年の5連覇と三冠だ。
でも私にとっては、勝てなかった1990年代後半も十分に黄金期だった。ロナウド、バッジョ、ビエリがいて、レコバがいて、次は誰が来るかを待っていた。毎週のようにインテル劇場があった。勝ったかどうかとは別に、あれほど楽しいインテルはなかった。
モラッティが去った日|感謝と尊敬しかない
モラッティは2013年11月、インドネシアの実業家エリック・トヒルにクラブの過半数を売った。家業の石油会社が赤字に苦しみ、クラブを支え続けることができなくなったのだ。
モラッティには、本当に感謝と尊敬しかない。試合に勝てなくても、文句一つ言わなかった。あんな会長は、もう出てこないと思う。
その後、セリエAは世界の中心から少しずつ離れていった。プレミアリーグとラ・リーガへ資金が流れ、インテルも札束で世界最高の選手を集めるクラブではなくなった。
気づけば、私の髪にも白いものが増えていた。
このクラブのせいだと、今でも思っている。
金が使えなくなったインテルは、どう戦ったのか。そこで登場するのが、ジュゼッペ・マロッタだ。第二弾へ続く。
そして、不動産の話
高い選手を集めれば、勝てるわけではなかった。
高い物件を選べば、満足できるとも限らない。
駅前の新築、眺望の良い高層階、人気のブランド。条件を集めても、暮らしてみて「何か違う」と感じることはある。必要なのは、「何を買うか」の前に、何を見るかだ。
モラッティは金でスターを買った。でも最後に三冠をもたらしたのは、一つにまとまったチームだった。家も、たぶん同じである。
参考・公式リンク
インテル公式サイト(Inter.it) ↗ インテル公式X(@Inter) ↗ Goal:2010年チャンピオンズリーグ制覇のインテル、当時のメンバーは今? ↗ Il Post:Il 5 maggio dell'Inter(2002年5月5日のラツィオ戦) ↗ Inter.it:インテル2-0ミラン(2010年1月24日のダービー) ↗ Inter.it:インテル1-0ローマ(2015年10月31日、長友のベストマッチ) ↗不動産の話を、もう少し
不動産は、物件から始めない|私たちの考え方 → なぜ私は芝浦・田町に事務所を構えたのか|インテリスタ不動産屋 → 湾岸タワーマンション徹底ガイド →※選手・試合・移籍・オーナーに関する記述は、公開されている報道・記録をもとにしています。モラッティ会長が投じた金額(約15億ユーロ)は報道ベースの目安です。