幕末の田町・芝浦で何が起きた?|薩摩藩邸焼き討ち・江戸城無血開城と明治の鉄道の画像

幕末の田町・芝浦で何が起きた?|薩摩藩邸焼き討ち・江戸城無血開城と明治の鉄道

地盤と、街のなりたち

田町・芝浦の街と歴史|第三部

幕末の田町・芝浦で、何が起きたのか?

薩摩藩邸焼き討ちから江戸城無血開城へ。
そして、かつての海に鉄道が走り始めた。

現在の田町駅周辺は、 港区の中でもオフィスと住宅が集まる街です。

三田口には第一京浜が走り、 芝浦口には運河とマンションが広がっています。

しかし160年ほど前、 この一帯は日本の政治を揺るがす事件の舞台でした。

薩摩藩邸の焼き討ち。

鳥羽・伏見の戦い。

江戸城総攻撃の危機。

そして勝海舟と西郷隆盛の会談。

江戸幕府が終わる直前、 田町・三田・芝浦は 歴史の中心に近い場所だったのです。

2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、 松坂桃李さん演じる小栗上野介と、 大沢たかおさん演じる勝海舟が登場します。

同じ幕臣でありながら、 のちに対立する二人。

その運命が分かれた時代を、 今回は田町・芝浦という場所から見ていきます。

※本記事では幕末の日付を原則として旧暦で表記します。
慶応3年12月25日の薩摩藩邸焼き討ちは、 新暦では1868年1月19日にあたります。

01|幕末の田町・芝浦は、どんな街だったのか?

現在の田町駅三田口から西へ歩けば、 三田の台地へ向かって土地が高くなります。

一方、芝浦口へ出れば 平坦な土地と運河が続きます。

この地形の違いは、 幕末にも存在していました。

ただし、 現在の芝浦の多くは、 当時まだ海でした。

田町付近の東海道は 江戸湾の海岸線に近い場所を通り、 海辺には船や物資の出入りがありました。

田町は、 江戸の陸上交通と海上交通が接する場所だったのです。

現在の芝浦にタワーマンションや オフィスが並んでいることを考えると、 その変化の大きさが分かります。

芝浦のマンションを知る 田町駅芝浦口のマンションと住環境へ

02|薩摩藩邸は、田町・三田・高輪にあった

江戸時代、 薩摩藩は現在の港区内に 複数の屋敷を持っていました。

三田・芝の上屋敷。

田町付近の蔵屋敷。

そして高輪の下屋敷です。

重要なのは、 これらが同じ屋敷ではないことです。

薩摩藩邸焼き討ち事件の舞台と、 江戸城無血開城の会談場所を 混同してはいけません。

三田、田町、高輪。

現在では駅や町名で区切られる場所ですが、 幕末には薩摩藩の政治や物流を支える 拠点が集まっていました。

03|慶応3年12月25日、三田の薩摩藩邸が焼き討ちされた

慶応3年12月25日。

新暦に換算すると1868年1月19日です。

三田の薩摩藩上屋敷が、 庄内藩兵を中心とする幕府側の部隊によって 襲撃されました。

これが薩摩藩邸焼き討ち事件です。

事件の背景には、 薩摩藩が江戸で進めていた 幕府への挑発工作がありました。

江戸で騒擾事件が続き、 幕府側の不満が高まります。

そして薩摩藩邸への襲撃に至りました。

この知らせは大坂にも伝わり、 幕府と薩摩の対立をさらに深めます。

旧暦で翌慶応4年1月、 鳥羽・伏見の戦いが始まりました。

薩摩藩邸焼き討ちだけが 開戦の原因だったわけではありません。

しかし、 三田で起きた事件が 武力衝突へ向かう重要な契機となったことは 確かです。

04|西郷隆盛は、江戸を救っただけの人物ではない

江戸城無血開城というと、 西郷隆盛には 戦争を避けた政治家という印象があります。

しかし、 薩摩藩邸焼き討ちに至る経緯を見ると、 西郷には別の側面もありました。

幕府を揺さぶる政治工作に関わり、 その後、 幕府との戦争を進める側に立った人物です。

そして1868年3月には、 勝海舟と交渉し、 江戸への総攻撃を回避する判断に関わります。

同じ人物が、 政治的な対決を進める側にも、 和平を決める側にもいた。

そこに幕末の政治の複雑さがあります。

西郷を単なる平和主義者として描くことも、 戦争を望んだだけの人物として描くことも、 歴史の一面しか捉えていません。

05|徳川慶喜は恭順し、小栗上野介は抗戦を主張した

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、 徳川慶喜は大坂城を離れて江戸へ戻りました。

その後、 慶喜は新政府への恭順を選びます。

しかし、 幕臣の意見は一致していませんでした。

小栗上野介は抗戦を主張します。

小栗は幕府の財政や軍事の近代化を進め、 横須賀製鉄所の建設にも関わっていました。

それだけに、 幕府の持つ力を利用して なお戦うという選択を考えていたのでしょう。

しかし、 慶喜は小栗の方針を採用せず、 小栗を罷免しました。

小栗は政治の中心を離れます。

一方、江戸では勝海舟が 新政府側との交渉を進めていきます。

小栗と勝の違いについては、 第二部で詳しく紹介しています。

第二部|小栗上野介は、なぜ処刑されたのか? 勝海舟との対立、徳川慶喜の決断、横須賀製鉄所の功績

06|勝海舟と西郷隆盛の会談は、田町で行われたのか?

1868年3月13日、14日。

勝海舟と西郷隆盛は、 江戸への総攻撃を回避するための 会談を行いました。

会談場所については、 現在も史料上の議論があります。

一般的には、 13日が高輪の薩摩藩下屋敷、 14日が田町の薩摩藩蔵屋敷だったと 説明されています。

現在、 田町駅近くの芝五丁目33番付近には、 会談を伝える記念碑があります。

碑には、 「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」 という文字が刻まれています。

田町の蔵屋敷は有力な候補地ですが、 会談場所を一か所に断定することはできません。

壁画や会談の背景については、 第一部で詳しく紹介しています。

第一部|田町駅の壁画に、なぜ勝海舟と西郷隆盛がいるのか? 内見の途中で見つけた壁画から、江戸城無血開城と大河ドラマへ

07|2027年大河ドラマでは、この街がどう描かれるのか

2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、 小栗上野介を松坂桃李さん、 勝海舟を大沢たかおさんが演じます。

制作側は、 幕府を「改良」して人々を束ねる 「仕組み」をつくりたい小栗と、 幕府を「解体」してでも 実力ある「個人」を活躍させたい勝を 対比しています。

小栗を主人公とする物語で、 勝と西郷の江戸城無血開城が どのように描かれるのか。

脚本家・安達奈緒子さんの過去作品や キャストから考えた予想は、 第一部で詳しく紹介しています。

第一部|大河ドラマは江戸城無血開城をどう描くのか? 松坂桃李・大沢たかおの配役と脚本家から展開を予想

08|江戸城無血開城は、二人だけの功績ではない

勝海舟と西郷隆盛の会談は、 江戸への総攻撃を回避する 重要な転換点となりました。

しかし、 山岡鉄舟による事前交渉や、 大久保一翁らの働きもありました。

複数の交渉と判断が積み重なり、 江戸への総攻撃は回避されたのです。

その経緯については、 第一部で詳しく紹介しています。

09|幕府は終わった。しかし、近代化は終わらなかった

小栗上野介が推進した横須賀製鉄所は、 明治政府に引き継がれました。

船を修理し、 機械をつくり、 新しい技術を蓄積する施設です。

幕府のために始められた事業が、 明治の日本でも利用されました。

政治的には敗れた人物の仕事が、 次の時代に引き継がれていく。

歴史の勝者と敗者だけでは説明できない つながりがあります。

そして、 日本の近代化は 鉄道の建設という形でも進んでいきます。

幕府が終わってからわずか数年後、 田町・高輪の海岸線にも 大きな変化が訪れました。

10|1872年、田町・芝浦の海岸線に鉄道が走った

江戸城無血開城から4年後。

1872年、 新橋と横浜を結ぶ 日本最初の鉄道が開業しました。

新橋を出た列車は、 芝、田町、高輪、品川を通り、 横浜へ向かいます。

当時、 現在の田町駅はまだありません。

田町駅が開業するのは1909年です。

つまり、 駅ができるより37年も前に、 この場所には鉄道が通っていたのです。

さらに、 田町から高輪にかけての一部区間では、 海の中に築堤をつくって 線路を通しました。

高輪築堤です。

幕末には海岸沿いに薩摩藩の蔵屋敷があった。

明治になると、 その近くに蒸気機関車が走り始めた。

そして埋め立てが進み、 現在の芝浦の街が形成されていきました。

幕末の政治史と、 明治の鉄道史。

一見すると別の話に見えますが、 田町・芝浦では 同じ場所の歴史としてつながっています。

日本最初の鉄道は、なぜここを走った?|東京編 新橋・田町・高輪築堤から多摩川まで 日本最初の鉄道|神奈川編 川崎・鶴見・神奈川宿・横浜へ

11|田町駅の東西には、江戸から続く地形が残っている

現在の田町駅で、 三田口と芝浦口を比べてみてください。

三田口から西へ進むと、 三田、高輪、白金へ向かって 土地が高くなります。

一方、 芝浦口の東側には 平坦な土地と運河が広がっています。

この違いは、 自然の地形と、 その後の埋め立てによる街づくりの 積み重ねです。

同じ田町駅周辺でも、 場所によって土地の成り立ちは異なります。

ただし、 台地だから必ず安全、 埋立地だから必ず危険、 という単純な話ではありません。

地形、地層、建物の基礎構造、 それぞれを分けて考える必要があります。

街の歴史を知ることは、 現在の住環境や不動産を考えるときにも 役立ちます。

現在の芝浦では、 グローバルフロントタワー、 ブランズタワー芝浦、 プラウドタワー芝浦など、 大規模なマンションが街の風景をつくっています。

しかし、 同じ芝浦でも マンションの位置や駅までの道、 運河との距離によって 暮らしの印象は変わります。

その違いは、 実際に街を歩いてみるとよく分かります。

芝浦の不動産情報 芝浦で住まいを探す方へ

12|幕末から明治へ。そして、現在の田町・芝浦へ

慶応3年12月25日、 三田の薩摩藩邸が焼き討ちされました。

慶応4年3月、 勝海舟と西郷隆盛が会談し、 江戸への総攻撃は回避されました。

同じ1868年、 小栗上野介は処刑されました。

1872年、 田町・高輪の海岸線に鉄道が走り始めます。

その後、 田町駅が開業し、 芝浦の埋め立てが進み、 街は大きく変わりました。

勝海舟は1899年まで生きました。

小栗上野介は、 その変化を見ることができませんでした。

しかし、 小栗が進めた近代化の取り組みは、 新しい日本にも受け継がれました。

幕府は終わった。
けれど、そこで始まった仕事まで
終わったわけではなかった。

田町駅の壁画を見上げる。

第一京浜を歩く。

芝浦の運河を眺める。

そこに、 かつての海岸線と 幕末の出来事を重ねてみる。

歴史を知ると、 普段見慣れた街にも 別の表情が見えてきます。

2027年の大河ドラマでは、 この田町・芝浦につながる歴史が どのように描かれるのでしょうか。

放送が始まったら、 史実とドラマの違いを 改めて考えてみたいと思います。

株式会社 blue blooded

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参考資料・関連情報
NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』制作・出演者発表
港区史・港区の歴史資料
港区観光協会「勝・西郷会見の地跡」
国立国会図書館 幕末・明治人物資料
JR東日本 高輪築堤関連資料

※幕末の日付は原則として旧暦で表記しています。
※勝海舟・西郷隆盛の会談場所には諸説があります。
※ドラマの展開予想は筆者の考察です。

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