
横浜線沿線にはなぜ城跡が多い?|片倉城・小机城・八王子城から鎌倉街道、源頼朝・北条氏の歴史をたどる
先日、リニア中央新幹線の建設が進む橋本駅へ行ってきました。
その帰り、JR横浜線に乗っていると、片倉駅の車窓から緑に覆われた丘が見えました。
片倉城跡です。
今では住宅地に囲まれた静かな丘ですが、かつては武士たちが守りを固めた中世の城でした。
そういえば、横浜線には小机城跡もあります。 新横浜駅と菊名駅の間には篠原城跡。 中山駅の近くには榎下城跡。 さらに八王子方面には滝山城と八王子城もあります。
横浜線といえば、八王子・橋本・町田・新横浜・東神奈川を結ぶ身近な鉄道。 通勤や通学、新幹線への乗り換えで利用する方も多いでしょう。
ところが、その沿線を歴史の視点で眺めると、中世から戦国時代の城跡が次々と現れます。
なぜ、これほど城跡があるのでしょうか。
今回はまず、城と武将たちの歴史をたどってみます。 その先には、源頼朝や新田義貞、足利尊氏も関わった鎌倉街道、そして明治時代に誕生した横浜線の意外なつながりが見えてきます。
1.片倉城|車窓から見えた中世の城
片倉城は、東京都八王子市片倉町にある中世の城跡です。 現在は片倉城跡公園として整備され、JR横浜線片倉駅から徒歩約5分の場所にあります。
八王子市によれば、室町時代の応永年間、1394年から1427年ごろに長井氏が築いたという伝承があります。 ただし、築城の詳しい経緯は分かっていません。
ここで重要なのは、片倉城が後北条氏の時代より前に起源を持つと伝えられる城だということです。
戦国時代に後北条氏の勢力がこの地域に及ぶと、城にも改修が加えられたと考えられています。
城は丘陵の先端に位置し、周囲には川や低地があります。 土塁や空堀も残されており、自然の地形を利用した中世の城の姿を今に伝えています。
城を築くうえでは、敵が攻めにくいこと、周囲を見渡せること、そして人や軍勢の移動を把握できることが重要でした。
何気なく車窓から眺めていた丘にも、武士たちが土地の高低差を読み取った歴史があったのです。
2.小机城|太田道灌が攻め、後北条氏の拠点となった城
横浜線で横浜方面へ向かうと、小机駅があります。
ここには小机城跡が残されています。 現在は小机城址市民の森として整備され、空堀や土塁などを見学できます。
小机城が歴史の表舞台に登場するのは、室町時代の関東の争乱です。
1478年、長尾景春の乱に関係する戦いの中で、小机城は太田道灌に攻め落とされました。
太田道灌といえば、江戸城を築いたことで知られる武将です。
東京の中心部にある江戸城と、横浜線の小机駅近くにある小机城。 一見、関係の薄そうな二つの城が、同じ武将の歴史で結ばれています。
その後、戦国時代に後北条氏が勢力を拡大すると、小机城は横浜北部の重要拠点となりました。
城代を務めた笠原氏などを中心に、周辺の武士たちは「小机衆」として組織されます。
小机城は、単独の城ではありませんでした。 周辺の城や砦と連携し、鶴見川流域の支配を支える役割を担ったのです。
鉄道好きの方にとっても、小机城は興味深い場所です。 横浜線は小机城跡の近くを城郷トンネルで抜けています。
かつて武士たちが守った丘陵の近くを、今では通勤電車が走っています。
3.篠原城|新横浜と菊名の間に残る城跡
新横浜駅と菊名駅の間にも、中世の城跡があります。
篠原城です。 金子城とも呼ばれています。
この城には、武蔵国の武士・金子氏との関係を伝える話があります。 ただし、築城年代や城主の変遷には不明な点も残されています。
戦国時代には後北条氏の支配下に入った地域で、丘陵の地形を利用した城跡が残っています。
新横浜といえば、東海道新幹線が停車する近代的な交通拠点です。
しかし、その近くには中世の城跡があります。
新幹線と横浜線が交差する地域に、武士たちが活動した時代の地形が残っている。
これも横浜線沿線の面白さです。
4.榎下城|後北条氏より古い、上杉氏の城
横浜線の中山駅周辺には、榎下城跡があります。
現在の横浜市緑区三保町、舊城寺の周辺に位置する城跡です。
榎下城は、室町時代の上杉氏と関係が深い城として知られています。
関東では、鎌倉公方と関東管領の対立によって、室町時代にも激しい争乱が続いていました。
1438年に始まった永享の乱では、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実が対立します。
榎下城に関係する上杉憲直も、この争乱の中で命を落としたと伝えられています。
つまり、榎下城も後北条氏が関東を支配する以前の歴史を持っています。
その後、小机城の出城として機能した可能性も指摘されています。
片倉城、篠原城、榎下城、小机城。
これらは、すべて同じ武将が同じ時代に築いた城ではありません。
それぞれ異なる歴史を持つ城が、後の戦国時代に後北条氏の勢力圏へ組み込まれていったのです。
5.滝山城|武田信玄の侵攻を受けた北条氏照の拠点
八王子の城を語るうえで欠かせないのが、滝山城です。
滝山城は、八王子市北部、多摩川と秋川の合流地点に近い丘陵上に築かれた城です。
もともとは大石氏と関係する城でしたが、戦国時代には後北条氏の北条氏照が拠点としました。
氏照は、相模国小田原を本拠とする北条氏康の子です。
後北条氏は、戦国時代に関東で大きな勢力を築いた大名でした。
1569年、武田信玄が関東へ侵攻します。
武田軍は滝山城にも攻撃を加えました。
滝山城は落城を免れましたが、城の防御や戦い方を見直す契機になったと考えられています。
やがて北条氏照は、より険しい山の地形を利用した八王子城へ拠点を移します。
城の歴史は、時代とともに変化する戦争の歴史でもあります。
6.八王子城|1590年、わずか一日で落城した巨大山城
八王子城は、北条氏照が築いた戦国時代の山城です。
横浜線の八王子駅からは離れた八王子市西部に位置しますが、八王子地域の城の歴史を考えるうえでは欠かせません。
築城は1580年代に進められ、氏照は滝山城から本拠を移しました。
八王子城は、険しい山の地形を利用した大規模な城でした。
山頂付近の要害地区、山麓の居館地区、城下町にあたる根小屋地区などから構成されています。
しかし1590年、豊臣秀吉による小田原攻めが始まります。
秀吉は小田原城を包囲するとともに、関東各地の後北条氏の城を攻略していきました。
このとき、城主の北条氏照は小田原城に詰めていました。
八王子城を守ったのは、城に残された家臣や周辺地域から集められた人々でした。
1590年6月23日、八王子城落城
前田利家・上杉景勝らが率いる豊臣軍が八王子城を攻撃します。
激しい戦闘の末、城はわずか一日で落城しました。
関東屈指の規模を誇る山城でありながら、その防御力を十分に発揮することはできなかったのです。
八王子城は、完成を迎える前に落城したとも考えられています。
この落城は、後北条氏に大きな打撃を与えました。
同年7月、小田原城は開城。
北条氏照は兄の北条氏政とともに切腹し、戦国大名としての後北条氏は滅亡します。
ここで一つ整理しておきたいことがあります。
鎌倉幕府の執権だった北条氏と、戦国時代に小田原を本拠とした後北条氏は、同じ「北条」という名を使っていますが、直接の同一家系ではありません。
後北条氏は伊勢宗瑞、いわゆる北条早雲を祖とする戦国大名です。
この違いは、これから登場する『鎌倉殿の13人』や『逃げ上手の若君』を考えるうえでも重要です。
7.『鎌倉殿の13人』から見る鎌倉の歴史
ここで、城の歴史から少し時代をさかのぼってみましょう。
2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をご覧になった方も多いのではないでしょうか。
源頼朝を演じたのは大泉洋さん。
北条義時は小栗旬さん、北条政子は小池栄子さん。
北条時政を坂東彌十郎さん、北条泰時を坂口健太郎さんが演じました。
そして、横浜の歴史と深く関わる畠山重忠を演じたのが、中川大志さんでした。
頼朝が鎌倉を政治の中心にすると、関東各地の御家人が鎌倉へ集まり、命令や情報が行き交うようになります。
軍勢を動かすためにも、各地を結ぶ交通路は欠かせませんでした。
現在「鎌倉街道」と呼ばれる道の多くは、こうした中世の交通と関係しています。
畠山重忠は、横浜の二俣川で討たれた
『鎌倉殿の13人』で印象的だった武将の一人が、畠山重忠です。
重忠は源頼朝に仕えた有力御家人でした。
しかし1205年、幕府内部の対立に巻き込まれ、鎌倉へ向かう途中、武蔵国二俣川で幕府軍と戦って討たれます。
現在の横浜市旭区には、畠山重忠に関係する史跡が残っています。
二俣川は横浜線の沿線ではありませんが、鎌倉へ向かう中世の交通と軍事を考えるうえで重要な場所です。
鎌倉街道は、人や物を運ぶだけでなく、武士たちの運命を左右する道でもあったのです。
8.『逃げ上手の若君』と、鎌倉幕府を滅ぼした道
もう一つ、鎌倉街道の歴史を知る入口になる作品があります。
松井優征さん原作の漫画・アニメ『逃げ上手の若君』です。
主人公は、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺児、北条時行。
アニメでは結川あさきさんが時行の声を担当しています。
時行を支える諏訪頼重の声は中村悠一さん。
足利尊氏の声は小西克幸さんが担当しています。
この物語の背景にあるのが、1333年の鎌倉幕府滅亡です。
新田義貞、鎌倉街道を南下する
1333年、新田義貞は鎌倉幕府を倒すために挙兵しました。
義貞の軍勢は、武蔵国を南下し、鎌倉へ向かいます。
その進軍路として重要だったのが、鎌倉街道上道です。
現在の埼玉県から東京都多摩地域へ入り、府中・関戸方面を通って鎌倉へ向かう道筋です。
義貞軍は小手指原などで戦い、府中の分倍河原でも幕府軍と激突しました。
さらに多摩川を渡る関戸周辺でも激しい戦闘が起きました。
現在の京王線・南武線分倍河原駅や京王線聖蹟桜ヶ丘駅の周辺には、こうした戦いの歴史が残っています。
そして新田義貞の軍勢は鎌倉へ進み、鎌倉幕府は滅亡しました。
道そのものに味方も敵もありません。
政治の中心へ向かう便利な道は、時にはその中心を攻めるための道にもなったのです。
北条時行と足利尊氏。鎌倉を取り戻す戦い
鎌倉幕府の滅亡から、わずか2年後の1335年。
北条時行は、鎌倉幕府の再興を目指して挙兵しました。
これが中先代の乱です。
時行の軍勢は一時的に鎌倉を奪還します。
しかし、足利尊氏が軍勢を率いて東国へ向かい、鎌倉を取り戻しました。
このとき尊氏が進軍した主な経路は東海道方面であり、横浜線沿いの鎌倉街道上道を通ったと断定することはできません。
それでも、鎌倉をめぐる戦いでは、各地から鎌倉へ通じる道が軍事的に重要だったことが分かります。
『鎌倉殿の13人』で描かれた幕府の成立。
『逃げ上手の若君』で描かれた幕府滅亡後の北条時行の戦い。
二つの作品をつなぐと、鎌倉を中心とした政治と軍事の歴史が、より立体的に見えてきます。
9.鎌倉街道は、戦争だけの道ではなかった
鎌倉街道という名前から、武士が軍勢を率いて進む道を想像するかもしれません。
もちろん軍事的な役割は重要でした。
しかし、実際には商人や旅人、僧侶、参詣者も利用していました。
鎌倉街道は一本の道路ではなく、鎌倉と各地を結ぶ複数の道筋の総称です。
上道・中道・下道などの主要な系統が知られていますが、細かな経路には諸説あります。
頼朝が通ったと伝えられる関戸の道
東京都多摩市の関戸は、鎌倉街道上道が通る交通の要所でした。
多摩市史によれば、1193年、源頼朝が上野・下野方面の狩猟地へ向かう際、この道を利用したことが史料に記されています。
関戸には宿や市があり、人と物が集まる場所でした。
また、善光寺へ向かう参詣者も鎌倉街道を利用しました。
戦争のための道であると同時に、商業や信仰を支える道でもあったのです。
道の周辺には宿場や集落が発達し、川を渡る場所には人々が集まりました。
そして、こうした交通の要所は、軍事的にも重要な場所になります。
10.では、なぜ横浜線沿線には城跡が多いのか?
ここまで、片倉城・小机城・篠原城・榎下城・滝山城・八王子城の歴史を見てきました。
城を築いた武将も、時代も違います。
しかし、共通するものがあります。
それは、城が築かれた地域が、古くから交通や軍事の重要な場所だったことです。
鎌倉街道をはじめとする古い道は、丘陵の間を抜け、川を渡り、各地の集落を結んでいました。
城は、そうした道を監視し、地域を支配するための拠点にもなりました。
ただし、ここで注意したいことがあります。
横浜線沿線のすべての城が、鎌倉街道を守るために築かれたわけではありません。
また、現在の横浜線のルートと鎌倉街道の道筋が、そのまま重なっているわけでもありません。
むしろ、古くから人々が移動していた地域に、さまざまな時代の城が築かれ、その後に鉄道が通るようになった、と考える方が自然です。
城跡の多さを正確に比較するには、他の鉄道路線との比較も必要です。
それでも、横浜線に乗っているだけで複数の城の歴史に触れられることは、この路線の大きな魅力ではないでしょうか。
11.横浜線は、鎌倉街道に沿って造られたのか?
ここからは鉄道の歴史です。
横浜線の前身である横浜鉄道は、1908年、明治41年に開業しました。
主な目的の一つは、八王子方面の生糸などを横浜港へ運ぶことでした。
明治時代の日本にとって、生糸は重要な輸出品でした。
八王子には甲信地方などから生糸や織物が集まり、それを横浜へ運ぶ交通が発達していました。
八王子と横浜を結ぶ道は、「絹の道」としても知られています。
横浜線は、このような近代の産業と貿易を背景に誕生した鉄道です。
鎌倉街道が中世の政治・軍事・商業を支えた道であるのに対し、横浜線は明治時代の物流を支える鉄道でした。
したがって、横浜線が鎌倉街道をそのままなぞって造られたわけではありません。
しかし、どちらも武蔵国南部から相模国方面へ人や物が移動する地域を通っています。
目的は違っても、この地域が交通の要所であり続けたことは共通しています。
12.城と鉄道には、もう一つの共通点がある
それが地形です。
中世の武士たちは、丘陵、川、湿地、谷を利用して城を築きました。
一方、鉄道は勾配や曲線を考えながら、できるだけ効率よく線路を敷設します。
城と鉄道では、土地を選ぶ条件は異なります。
しかし、どちらも地形を無視することはできません。
片倉城は丘陵の先端に築かれ、現在の横浜線はその近くを走っています。
小机城では、横浜線が城跡付近のトンネルを通っています。
同じ土地に、中世の軍事施設と近代の交通施設が重なっているのです。
土地の歴史を知ることは、その地形を知ることでもあります。
そして地形を知ることは、現在の街の成り立ちを理解することにもつながります。
13.鎌倉街道から絹の道、横浜線、そして橋本のリニアへ
今回、橋本駅を訪れた目的は、リニア中央新幹線でした。
橋本駅周辺では、神奈川県駅(仮称)の建設が進んでいます。
これから新しい交通拠点として変わっていく橋本。
その帰り道、横浜線の車窓から見えた片倉城跡が、中世の歴史を考えるきっかけになりました。
鎌倉時代には、武士や旅人が街道を行き交いました。
戦国時代には、交通の要所を押さえるために城が築かれ、争奪戦が繰り返されました。
明治時代には、生糸を運ぶために横浜線が開業しました。
そして現在、橋本には新しい高速鉄道が建設されています。
片倉城、小机城、篠原城、榎下城、滝山城、八王子城。
それぞれの城には異なる歴史があります。
しかし、鉄道の沿線という視点から見てみると、城と街道と地形の関係が浮かび上がってきます。
普段何気なく利用している横浜線。
次に乗るときは、駅の向こうに見える丘や緑にも、少し目を向けてみてはいかがでしょうか。
いつもの車窓が、少し違って見えるかもしれません。
横浜線と城跡の歴史|よくある質問
Q.横浜線の沿線には、どんな城跡がありますか?
片倉城、小机城、篠原城、榎下城などがあります。 さらに八王子方面には滝山城、八王子城もあります。 ただし、すべてが横浜線の駅から徒歩圏内にあるわけではありません。
Q.横浜線は鎌倉街道に沿って造られた鉄道ですか?
横浜線は1908年に、生糸などを横浜方面へ運ぶ目的で開業した鉄道です。 鎌倉街道をそのままなぞった路線ではありませんが、古くから交通上重要だった地域を通っています。
Q.八王子城は、なぜ一日で落城したのですか?
1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、城主の北条氏照は小田原城に詰めていました。 八王子城には主力の武将や兵が十分に残っておらず、前田利家・上杉景勝らの軍勢による攻撃を受け、6月23日に落城しました。
参考資料
本文は、八王子市の片倉城跡・八王子城跡資料、横浜市の地域史資料、多摩市史などを参考に構成しました。 築城年代や中世の街道の経路には諸説があり、伝承と確認されている史実を区別しています。