
福沢諭吉はなぜ三田を選んだ?|慶應義塾大学の歴史と田町、三田会と鉄道の意外なつながり
福沢諭吉・慶應義塾大学・三田・田町の歴史
・慶應義塾は1858年に築地鉄砲洲で始まり、芝新銭座(いまの浜松町付近)を経て、1871年に三田の旧島原藩中屋敷へ移りました。
・移転のきっかけの一つは、福沢が1870年に発疹チフスを患ったこと。湿地の新銭座より、乾いた高台で海を望む三田を評価していました。
・三田の高台は台地の東の端、田町駅の芝浦側は海を埋め立てた低地です。
・福沢は1901年に亡くなり、田町駅の開業は1909年。福沢は田町駅を使ったことがありません。
・いま三田と日吉は、都営三田線と東急目黒線の直通で、乗り換えなしで結ばれています。
福沢諭吉といえば、『学問のすゝめ』。 そして、長く一万円札の肖像として親しまれてきた人物です。
慶應義塾の創設者としても知られていますが、 福沢諭吉がどんな人物だったのか、 そしてなぜ慶應義塾大学が東京の三田にあるのか。
そこまで知っている方は、意外に少ないかもしれません。
私たちのサロンがある田町・芝浦から、 JR田町駅の三田口へ出て、坂道を上っていくと、 慶應義塾大学の三田キャンパスがあります。
三田といえば慶應義塾。 慶應義塾といえば福沢諭吉。
今回は、私が昔から好きな福沢諭吉の少年時代の逸話から、 『学問のすゝめ』、三田への移転、 卒業後も続く三田会のつながり、 そして現在の田町・三田を走る鉄道まで、 少し違った角度から紹介してみたいと思います。
01|福沢諭吉とは、何をした人なのか
福沢諭吉は1835年、現在の大阪市にあった 中津藩の蔵屋敷で生まれました。
幼いころに父を亡くし、 豊前国中津、現在の大分県中津市で育ちます。
幕末から明治にかけて活躍した思想家、教育者であり、 日本に西洋の学問や制度を紹介した人物です。
1855年には大坂の適塾で蘭学を学び、 1858年には江戸の築地鉄砲洲にあった 中津藩の屋敷で蘭学を教え始めました。
これが、後の慶應義塾の出発点です。
その後、福沢はアメリカやヨーロッパを訪問し、 西洋社会の制度や文化を実際に見聞します。
最初の渡米は1860年、咸臨丸でした。 同じ年、幕府の遣米使節として、 2027年の大河ドラマの主人公・小栗忠順も 別の船でアメリカへ渡っています。
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』は江戸城無血開城をどう描く?
有名な『学問のすゝめ』では、 身分や家柄に頼るのではなく、 学問を通じて自分の力で考え、 自立することの大切さを説きました。
その福沢諭吉には、少年時代から なかなか面白い一面があったようです。
02|私が好きな福沢諭吉の逸話
福沢諭吉には、私が昔から好きな逸話があります。
少年時代の福沢は、 殿様の名前が書かれた紙を踏んでしまい、 兄からひどく叱られたそうです。
しかし、福沢少年は納得しません。
名前を書いた紙を踏んだくらいで、 何が悪いのか。
そこで今度は、神様のお札を踏んでみた。
それでも何も起こらない。
さらに面白いのは、 稲荷神社の祠にあった御神体の石を、 別の石に取り替えてしまったという話です。
人々は取り替えられたことも知らずに、 その石をありがたく拝んでいたそうです。
これらは、福沢自身が『福翁自伝』で 振り返っている少年時代の出来事です。
もちろん、今なら褒められた行為ではありません。
しかし私は、この話が妙に好きなのです。
兄に叱られたことへの反発も、 少しはあったのでしょうか。
本当に罰が当たるのか試してみよう。 (少年の心の内を想像した一文です)
そんな少年の姿を想像すると、 思わず笑ってしまいます。
そして面白いのは、 ただのいたずらで終わらなかったことです。
世の中の常識も、偉い人の言葉も、 神様の罰さえも、まず自分で確かめてみる。
後に『学問のすゝめ』を書き、 慶應義塾を発展させた福沢諭吉の姿勢が、 少年時代から垣間見えるように思います。
人に言われたから信じるのではなく、 自分の頭で考える。
私は、福沢諭吉のこういうところが好きなのです。
03|『学問のすゝめ』は、単なる平等論ではない
福沢諭吉の代表作といえば『学問のすゝめ』です。
その冒頭に登場する有名な一節は、 多くの方が一度は耳にしたことがあるでしょう。
人の下に人を造らず」
この言葉は、人間の平等を説いたものとして 紹介されることが多いようです。
ただ、原文は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。 福沢は、これを自分の主張としてではなく、 「そう言われている」と紹介する形で書き始めています。
しかし私は、この文章の面白さは、 その先にあると思っています。
福沢の論理は、大きく二つに分かれています。
第一に、人間は生まれながらに平等である
家柄や身分によって、 生まれつき人間の価値に上下があるわけではありません。
人は誰もが、同じ人間として生まれてくる。
これが最初の考え方です。
第二に、それなのに現実の社会では差が生まれている
では、なぜ現実には、 賢い人とそうでない人、 豊かな人と貧しい人がいるのでしょうか。
福沢は、その違いを生む重要な要因として、 学問の有無を挙げました。
学ぶ人と学ばない人では、 知識も判断力も変わってくる。
そして、その違いが社会での境遇にも 影響してくるというわけです。
① 人間は生まれながらに平等である。
② しかし、学ぶか学ばないかによって、 その後の知識や社会的な境遇に違いが生まれる。
つまり福沢が伝えたかったのは、 単に「人間は平等だ」ということではありません。
生まれは平等。 しかし、その後の学問によって差がつく。
だからこそ、学問をしなければならない。
ここに『学問のすゝめ』の核心があると 私は思います。
もちろん、現代では経済環境や教育機会など、 学問以外にも人生の違いを生む要因があります。
それでも、生まれや家柄に頼らず、 自分で学び、自分の人生を切り開こうという 福沢の考え方には、 今でも大きな意味があると思います。
少年時代、神様の罰を自分で確かめようとした福沢諭吉。
その少年が、やがて人々に 「学び、自分の頭で考えなさい」と説くようになった。
私は、このつながりが実に面白いと思うのです。
04|慶應義塾は、最初から三田にあったわけではない
現在、慶應義塾大学といえば 三田を思い浮かべる方も多いでしょう。
しかし、慶應義塾は最初から 三田にあったわけではありません。
1858年、福沢諭吉は江戸の築地鉄砲洲にあった 中津藩の屋敷で蘭学を教え始めました。
その後、芝新銭座へ移転します。
芝新銭座は、現在の港区浜松町付近にあたります。
1868年、慶応4年に 「慶應義塾」と命名されました。
そして1871年、明治4年に 現在の三田へ移転します。
1858年|築地鉄砲洲
福沢諭吉が蘭学塾を開く。
1868年|芝新銭座
慶應義塾と命名。
1871年|三田
旧島原藩邸へ移転。
現在|三田・日吉・矢上・湘南藤沢など
複数のキャンパスへ発展。
つまり、慶應義塾の歴史は、 築地から浜松町、そして三田へと続いているのです。
東京湾岸の街の歴史と、 慶應義塾の歴史は、 思っている以上に深く結びついています。
05|福沢諭吉は、なぜ三田の高台を選んだのか
ここからは、田町・三田の街を知る 不動産会社としても興味深い話になります。
福沢諭吉が慶應義塾の移転先として選んだのは、 三田の高台にあった旧島原藩邸でした。
現在の三田キャンパスの敷地です。
慶應義塾の公式資料によると、 三田移転を考えるきっかけの一つは、 福沢自身が1870年に発疹チフスにかかったことでした。
福沢は、それまで学校があった芝新銭座について、 湿地であり、環境が気になる場所だと感じていました。
さらに、入塾希望者が増え、 校舎も手狭になっていました。
なお、港区立郷土歴史館の研究資料には、 新銭座周辺で進んだ鉄道敷設準備と土地の動きについても 記されています。 福沢自身が移転を決めた理由を 鉄道工事だけに求めることはできませんが、 慶應義塾の三田移転は、近代東京の街づくりが 始まる時代と重なっていました。
港区立郷土歴史館|慶應義塾の三田移転と鉄道敷設に関する研究資料
そこで移転先として選ばれたのが、 三田の旧島原藩邸だったのです。
当時の三田は、高台から海を望むことができる場所でした。
福沢は、この土地の乾燥した環境や 海への眺望を評価していました。
現在はビルやマンションが建ち並んでいますが、 明治初期の三田は、 海を身近に感じられる場所でもあったのです。
もちろん、三田移転には 建物や敷地の確保など、 学校運営上の事情もありました。
したがって、単純に 「地盤が良いから選んだ」と 断定することはできません。
ただ、高台で乾燥した環境を 福沢が評価していたという点は、 土地を考えるうえで非常に興味深い事実です。
少年時代には神様のお札を踏んで、 本当に罰が当たるのかを試していた福沢諭吉。
その福沢が、学校を置く場所についても、 環境や立地を自分の目で見て考えていた。
私は、この二つの話に、 どこか共通するものを感じます。
06|三田キャンパスは、もともと大名屋敷だった
慶應義塾大学の三田キャンパスがある場所は、 江戸時代には島原藩の中屋敷が置かれていた土地です。
江戸の大名屋敷は、 単に住居として使われていたわけではありません。
藩の政治や江戸での活動を支える 拠点でもありました。
明治維新によって大名屋敷の役割が変わり、 その跡地が学校や官庁などへ転用されていきます。
慶應義塾の三田移転も、 江戸から東京へと変わっていく 都市の歴史の一場面だったといえるでしょう。
現在の三田キャンパスを歩くと、 近代的な校舎だけでなく、 歴史を感じさせる建物や空間が残されています。
その土地がかつて大名屋敷だったことを知ると、 見慣れた三田の街も少し違って見えてきます。
07|福沢諭吉が見た三田の海は、どこにあったのか
現在の三田キャンパスから東京湾を眺めようとしても、 周囲には多くの建物が並んでいます。
しかし、福沢諭吉が三田に移転した明治初期には、 今とはまったく違う景色が広がっていました。
芝浦の埋立てが進み、 現在のような街並みが形成されるのは、 その後のことです。
かつての東京湾の海岸線は、 現在よりも内陸側にありました。
江戸時代から明治、大正、昭和へと、 東京湾岸の土地は少しずつ姿を変えてきました。
現在の田町駅芝浦口に広がる マンションやオフィスビルの街並みも、 長い歴史の中では比較的新しい風景なのです。
福沢諭吉が眺めた海と、 私たちが毎日歩いている芝浦。
同じ場所の歴史を重ねてみると、 なかなか面白いものがあります。
08|三田の高台と田町・芝浦の低地
田町駅の周辺を歩いていると、 三田口側と芝浦口側で、 街の印象が大きく異なることに気づきます。
三田側には坂道があり、 慶應義塾大学のキャンパスは 高台に位置しています。
一方、芝浦側には運河や埋立地が広がり、 比較的平坦な街並みが続きます。
この違いには、 東京の地形の成り立ちが関係しています。
三田の高台は武蔵野台地につながる台地地形にあり、 芝浦側は東京湾沿岸の低地や 埋立地を含む地域です。
もちろん、台地だから必ず安全、 低地だから必ず危険という 単純な話ではありません。
実際の地盤条件や災害リスクは、 場所ごとの地質、造成履歴、 建物の構造などによって異なります。
しかし、なぜ三田に坂があり、 芝浦には運河が多いのか。
その理由を知ると、 東京という街の見え方が変わります。
福沢諭吉が選んだ三田の高台も、 こうした東京の地形の中にあります。
09|三田演説館と福沢諭吉
三田キャンパスには、 福沢諭吉の思想を伝える重要な建物があります。
それが三田演説館です。
1875年に建てられた三田演説館は、 日本における演説文化の歴史を伝える建築物として知られ、 国の重要文化財に指定されています。
福沢諭吉は、西洋社会で行われていた 公開の演説や討論の文化を、 日本にも広めようとしました。
人前で自分の考えを述べ、 相手の意見を聞き、議論する。
今では当たり前に思えることですが、 当時の日本では新しい文化でした。
福沢が重視したのは、 ただ知識を覚えることではありません。
自分の考えを持ち、 それを言葉にして伝えることだったのでしょう。
少年時代の神社の逸話から、三田演説館へ。
時代も場所も違いますが、 権威に頼らず自分の頭で考えるという姿勢には、 通じるものがあるように感じます。
10|慶應義塾の強さは、卒業後にもある
慶應義塾の特徴は、 卒業してからも続く人と人とのつながりにあると思います。
その象徴が「三田会」です。
三田会は、慶應義塾の卒業生による 同窓会組織です。
卒業年度だけでなく、 地域や勤務先、業種ごとに 卒業生が集まり、交流を続けています。
一般に「慶應閥」という言葉を 耳にすることもあります。
企業や社会のさまざまな場所で、 同じ学校の卒業生がつながっている。
私は、この人的ネットワークこそ、 慶應義塾の大きな特徴の一つだと思います。
もちろん、卒業生だからといって 必ず仕事上の便宜が図られるわけではありません。
しかし、同じ学校で学んだという共通点が、 人と人との距離を縮めることはあるでしょう。
福沢諭吉が三田に移した学校は、 単に学問を教える場所としてだけでなく、 人々が長くつながり続ける場にもなりました。
そして私は、慶應義塾のこうしたつながりについて、 以前から少し面白いことを考えています。
それは、鉄道の話です。
11|慶應義塾と鉄道|三田と日吉はなぜ一本の電車でつながったのか
慶應義塾大学には、 三田キャンパスのほかに 日吉キャンパスがあります。
三田は東京の港区。 日吉は神奈川県横浜市港北区です。
この二つのキャンパスは、 都営三田線と東急目黒線の相互直通運転によって、 乗り換えなしで結ばれています。
考えてみると、なかなか面白い話です。
福沢諭吉が1871年に三田へ移した学校と、 その後に発展した日吉キャンパス。
その二つを、現在は一本の電車で行き来できます。
しかも、この鉄道網は 三田と日吉だけで終わりません。
東京メトロ南北線、 埼玉高速鉄道、 東急目黒線、 相鉄線へと広がっています。
さらに日吉を通る東急東横線では、 東京メトロ副都心線や東武東上線、 西武線方面への直通運転も行われています。
2023年には相鉄・東急新横浜線が開業し、 首都圏の鉄道ネットワークは さらに広がりました。
ここまで鉄道会社同士が協力するというのも、 考えてみれば大変な話です。
車両の規格、信号設備、ダイヤ、 運賃、費用負担。
会社ごとに事情も違うでしょう。
それでも長い年月をかけて、 相互直通運転を実現させてきました。
私は、こういう話を聞くと、 つい考えてしまいます。
慶應義塾の卒業生たちは、 鉄道会社にも数多くいるのではないか。
三田会のような人的ネットワークが、 どこかで役に立ったこともあるのではないか。
もちろん、これは私の想像です。
鉄道の相互直通運転は、 混雑緩和や利便性向上、 設備投資などの事情によって計画されるもので、 慶應義塾の人脈が計画を動かしたと 確認できるわけではありません。
それでも、 人と人をつなぐ三田会と、 街と街をつなぐ鉄道。
二つを重ねて眺めてみるのも、 なかなか面白いものです。
12|福沢諭吉は、田町駅を知らなかった
ここで、もう一つ面白い話があります。
福沢諭吉が亡くなったのは1901年。
一方、JR田町駅が開業したのは 1909年12月16日です。
つまり、 福沢諭吉は現在の田町駅を 利用したことがありません。
福沢が三田に学校を移した1871年には、 日本で最初の鉄道である 新橋・横浜間の鉄道も、 まだ開業していませんでした。
その鉄道が開業するのは翌1872年です。
しかもこの最初の鉄道は、田町から高輪にかけて、 海の上に築いた堤防「高輪築堤」の上を走りました。 三田の高台から海を眺めていた福沢の目には、 海の上を走る汽車が見えていたかもしれません。
福沢が三田を選んだ時代と、 現在の田町駅周辺の交通環境は、 まったく違っていたのです。
それから約150年。
現在の田町・三田には、 JR山手線、京浜東北線、 都営浅草線、都営三田線が通り、 さらに南北線や東急線との 広域ネットワークが広がっています。
福沢諭吉が見た三田の風景から、 現在の鉄道網まで。
街の変化を考えると、 実に大きな時間の流れを感じます。
13|田町・三田の4路線と、その先につながる南北線
現在の田町・三田は、 都心と神奈川方面を結ぶ 交通の拠点の一つになっています。
ここでは、福沢諭吉と慶應義塾の歴史を 少し離れて、 現在の鉄道について整理してみましょう。
田町駅|東京を環状につなぐ路線
山手線は、品川、渋谷、新宿、 池袋、上野、東京など、 東京都心の主要駅を結ぶ路線です。
田町駅から品川・東京方面へ移動でき、 通勤や通学、買い物など、 幅広い目的で利用されています。
慶應義塾大学三田キャンパスへのアクセスでも、 田町駅は主要な最寄り駅の一つです。
田町駅|横浜・川崎と東京を結ぶ路線
京浜東北線は、 大宮から東京を経由し、 川崎・横浜・大船方面へと続く路線です。
田町駅から横浜・川崎方面へ 移動する際にも便利です。
山手線と京浜東北線は、 田町駅を含む都心区間で並走しています。
同じ駅を利用していても、 目的地によって路線を選べることは、 田町の交通利便性の一つです。
三田駅|新橋・日本橋・浅草、空港方面へ
都営浅草線は、 西馬込から三田、新橋、 東銀座、日本橋、浅草方面へと続く路線です。
京急線や京成線などとの 相互直通運転によって、 羽田空港や成田空港方面へ 乗り換えを抑えて移動できる列車もあります。
三田駅は、 田町駅から徒歩で乗り換えられる位置にあり、 JR線と地下鉄を組み合わせた移動が可能です。
ただし、空港方面への直通列車は 行先や時間帯によって異なります。
三田駅|慶應義塾の三田と日吉を結ぶ
都営三田線は、 目黒から三田、日比谷、 大手町、巣鴨、高島平、 西高島平方面へと続く路線です。
目黒駅から先は東急目黒線と 相互直通運転を行っています。
そのため、三田駅から日吉駅まで 乗り換えなしで移動できる列車があります。
慶應義塾大学の三田キャンパスと 日吉キャンパスを結ぶという意味でも、 非常に興味深い路線です。
さらに、相鉄線方面へ直通する列車もあり、 神奈川県内との結びつきが広がっています。
目黒駅|三田線と並ぶ広域直通ネットワーク
東京メトロ南北線は、 目黒から白金高輪、 麻布十番、六本木一丁目、 溜池山王、飯田橋、 王子、赤羽岩淵方面へと続く路線です。
三田駅そのものには 南北線は乗り入れていません。
しかし、目黒から白金高輪までの区間では、 南北線と都営三田線が 線路を共用しています。
また、南北線も東急目黒線と 相互直通運転を行っています。
赤羽岩淵から先は 埼玉高速鉄道線へ直通し、 反対方向では日吉や相鉄線方面へ つながっています。
三田線と南北線は、 東京の南北方向の移動を支える 重要な地下鉄ネットワークです。
こうして整理すると、 田町・三田には、 JRの主要路線だけでなく、 都心地下鉄と神奈川方面を結ぶ 複数の交通経路があることが分かります。
福沢諭吉が三田に学校を移した当時には 存在しなかった鉄道網が、 現在ではこの街の大きな特徴になっています。
14|東横線・目黒線・南北線は、なぜここまでつながったのか
私が特に面白いと思うのは、 東急線を中心とした相互直通運転です。
東急東横線は、 東京メトロ副都心線を経由して、 東武東上線や西武線方面へつながっています。
一方、東急目黒線は、 都営三田線と東京メトロ南北線に直通しています。
さらに2023年には、 相鉄・東急新横浜線が開業しました。
これによって、 神奈川県の相鉄線沿線から 東京都心へ向かう経路も増えました。
もちろん、すべての列車が すべての路線へ直通するわけではありません。
それでも、これほど多くの鉄道会社が 線路や運行を調整しながら 一つのネットワークを形成していることには、 驚かされます。
鉄道会社の利害関係を考えれば、 決して簡単な事業ではないはずです。
福沢諭吉の時代には存在しなかった 巨大な鉄道ネットワーク。
その上に、現在の慶應義塾の 三田キャンパスと日吉キャンパスが 位置しているというのも、 歴史の面白さではないでしょうか。
東急東横線・目黒線、 都営三田線、東京メトロ南北線、 相鉄線の相互直通運転。
なぜ、これほど多くの鉄道会社が つながるようになったのか。
第二弾では、2000年の地下鉄直通開始、 2008年の日吉延伸、2023年の相鉄・東急新横浜線開業を軸に、 鉄道会社が直通運転を進めた理由と 田町・三田・日吉の交通を詳しく解説します。
15|慶應義塾大学と、現在の田町・三田の街
現在の慶應義塾大学三田キャンパスは、 田町・三田を代表する存在の一つです。
JR田町駅の三田口から歩いて向かう学生や、 三田の坂道を行き交う人々の姿は、 この街の日常の風景になっています。
三田には大学だけでなく、 オフィス、住宅、商店街、 飲食店などが集まっています。
一方、田町駅の芝浦口側には、 大規模マンションやオフィスビルが並び、 運河沿いの街並みが広がっています。
同じ田町駅を利用していても、 三田側と芝浦側では 街の表情が大きく異なります。
三田には、江戸時代から続く高台の歴史。
芝浦には、東京湾の埋立てと 都市開発の歴史。
そして、その間に位置する田町駅は、 二つの街をつないでいます。
福沢諭吉と慶應義塾の歴史を知ることは、 田町・三田という街を知ることにも つながるのです。
田町の不動産・マンション完全ガイド|賃貸・購入・売却を田町の不動産会社が解説
16|不動産会社として、福沢諭吉から考えること
私は不動産の仕事をしています。
不動産を探すときにも、 世の中の常識や一般論だけでは 判断できないことがたくさんあります。
人気の街だから良い物件とは限りません。
高台だから安心、 駅に近いから便利、 新築だから価値がある。
どれも一つの判断材料にはなりますが、 それだけで結論を出すことはできません。
大切なのは、 その人にとって本当に必要な条件は何かを 考えることです。
価格、立地、建物、資金計画、 将来の暮らし。
一つずつ確認して、 納得できる判断をする。
少年時代の福沢諭吉のいたずらと、 不動産の仕事を直接結びつけるのは 少し強引かもしれません。
それでも、私はあの逸話を思い出すたびに、 何となく気持ちがよくなります。
誰かがそう言っているからではなく、 自分で確かめる。
それは、仕事でも日常でも、 忘れたくない姿勢です。
17|福沢諭吉が残した三田の風景
福沢諭吉は1901年に亡くなりました。
それから100年以上が経ち、 三田も田町も大きく変わりました。
かつて海を望むことができた高台の周囲には、 現在、多くの建物が並んでいます。
鉄道が整備され、駅が発展し、 芝浦には新しい街が広がりました。
それでも、福沢諭吉が三田へ移した慶應義塾は、 今も同じ場所にあります。
歴史というものは、 遠い昔の出来事ではありません。
毎日歩いている道や、 何気なく見ている建物の中に残っています。
田町駅から三田の坂を上り、 慶應義塾大学の前を通るとき。
神様のお札を踏み、 御神体の石を取り替えた少年が、 後にこの土地を学校の拠点として選んだことを 思い出してみてください。
少しだけ、街の景色が 違って見えるかもしれません。
BLUE BLOODED|田町・芝浦サロン
物件より先に、お話を。
私たちは、田町・芝浦を拠点に、 港区・中央区・品川区・江東区をはじめ、 東京・神奈川の不動産を扱っています。
街の歴史も、土地の特徴も、 物件の条件も。
大切なのは、お客様が納得して 選べることだと考えています。
賃貸・購入・売却・住み替えなど、 気になることがあれば、そこから。
田町・芝浦サロンを見る関連記事|田町・芝浦・東京の歴史と土地
参考資料
福沢諭吉『福翁自伝』
福沢諭吉『学問のすゝめ』
慶應義塾公式サイト「創立者 福澤諭吉」
慶應義塾公式サイト「慶應義塾の歴史」
慶應義塾「慶應義塾 三田移転150年」
慶應義塾『三田評論』福澤三之助に関する記事
慶應義塾・三田演説館に関する公開資料
JR東日本・東京都交通局・東京メトロ・東急電鉄の公開情報
慶應義塾|三田移転150年
港区立郷土歴史館|資料館だより第78号
※少年時代の逸話は『福翁自伝』に基づいて紹介しています。 兄に叱られたことへの「腹いせ」という解釈は、 筆者の想像を交えたものです。
※三田移転には土地・建物・環境など複数の事情があり、 地盤の良し悪しだけで決まったものではありません。
※慶應義塾の卒業生ネットワークが 鉄道の相互直通運転に影響したという点は、 確認された史実ではなく筆者の着想です。