
なぜ日本最初の鉄道はここを走った?|新橋から多摩川まで、1872年の海岸線・高輪築堤・標高・地盤をたどる|東京編|物件より先に、お話を。|blue blooded
TOKYO RAILWAY / 1872
なぜ日本最初の鉄道は、
ここを走ったのか。
新橋から多摩川まで。
1872年の海岸線・標高・水・地盤からたどります。
1872年。
日本で最初の鉄道が、新橋と横浜を結びました。
約29km。
現在なら、東海道線や京浜東北線で日常的に移動する距離です。
1872年の海岸線に当時の鉄道路線を重ね、 さらに土地を横から見てみると、一つの特徴が浮かび上がります。
新橋から横浜まで、
鉄道は大きな高低差を避けて走っている。
東京には高台があります。
麻布。三田。高輪。白金。
その先には武蔵野台地が広がっています。
それなのに、日本最初の鉄道は高い場所へ登って横浜を目指したわけではありません。
新橋から南へ。
芝。本芝。高輪。品川。大井。大森。蒲田。
そして、多摩川へ。
東京湾側の比較的低く、緩やかな場所をつないでいきます。
ただし、平らな場所を選べば簡単だったわけでもありません。
そこには、 海があり、入り江があり、水路があり、最後には大きな川がありました。
高い場所を避ける。
海なら築堤をつくる。
水路には橋を設ける。
川なら橋梁を架ける。
今回は日本最初の鉄道を、鉄道史だけではなく、 地図・標高・水・地盤から見てみます。
まずは東京編。
1872年秋、新橋から走り出した列車に乗ったつもりで、 多摩川まで約20kmを進んでみます。
図|1872年 新橋から多摩川までの鉄道路線
1872年頃の鉄道路線と海岸線を、現在の地形・街と重ねた概略図。 西側には武蔵野台地とその縁辺、東側には当時の東京湾があり、 鉄道がその間の比較的低い場所を南へ進んだことが分かります。 六郷では1872年当時、渡し舟と鉄道橋が併存していました。
1872年には、二つの「開業」があった
「1872年に新橋―横浜で日本最初の鉄道が開業した」。
よく知られた話ですが、実際には二つの段階がありました。
工事が先に進んでいた区間から列車を走らせました。 この時点では、まだ新橋発ではありません。
新橋から横浜まで、一本の鉄道としてつながります。
ですから、これからたどるのは、 1872年10月14日の全線開業以降の風景です。
まず、現在の駅を忘れてみる
現在なら、 新橋、浜松町、田町、高輪ゲートウェイ、品川、大井町、大森、蒲田。
駅が次々に現れます。
しかし1872年は違います。
現在の浜松町駅はありません。
田町駅もありません。
高輪ゲートウェイ駅は、もちろんありません。
大井町駅も、大森駅も、蒲田駅もまだありません。
1872年の全線開業時、東京側で列車が停車したのは、 新橋と品川。
現在の主要駅の多くは、
「まだ駅ではない場所」でした。
線路の方が、先に通っていたのです。
出発地点は、現在のJR新橋駅ではない
1872年の旅を始めるなら、現在のJR新橋駅から少し東へ歩きます。
向かうのは、 汐留。
現在の東新橋一丁目付近にある「旧新橋停車場」が、 日本最初の鉄道の東京側の出発地点です。
現在の東京駅はまだありません。
東京駅が開業するのは1914年。 鉄道開業から42年後です。
CURRENT LOCATION
現在:汐留・東新橋
1872年:新橋停車場
そして、この場所の面白さは駅だけではありません。
現在の汐留から高層ビルを消し、150年前まで時間を戻すと、 すぐ近くに水の東京が現れます。
水路。
浜離宮。
その先には東京湾。
新橋停車場は、 水運の東京と、鉄道の東京が接する場所でもありました。
浜松町――まだ駅はない。海は、もっと近い
蒸気機関車が新橋を出ます。
現在なら、すぐ浜松町です。
しかし1872年には浜松町駅はありません。
現在の浜松町駅が開業するのは、 1909年12月16日。
列車はその場所を通過していきます。
ここで一度、現在の海岸線を忘れてみます。
明治初期の海岸線は、現在より西側にありました。
列車は内陸を走っていたのではない。
海のすぐそばを、南へ走っていた。
田町――駅より先に、線路があった
列車は現在の田町へ入ります。
ここにも、まだ駅はありません。
田町駅が開業するのも、 1909年12月16日。
つまり1872年の列車は、 現在の浜松町駅も田町駅も通過していました。
そして田町まで来ると、 現在と1872年の景色の差が一気に大きくなります。
現在の田町駅芝浦口。
オフィス、大学、マンション、運河。
その先には芝浦の街が広がります。
しかし当時、 現在の芝浦の多くはまだ存在していません。
線路の東側には海が広がっていました。
その海は、その後の埋立てによって、 現在の芝浦の街へ変わっていきます。
運河の間に住宅、オフィス、学校、公園があり、 タワーマンションが並ぶ現在の芝浦。
1872年の「海」から現在の「暮らす街」まで時間を進めると、 芝浦がどういう場所なのかが、もう少し見えてきます。
田町駅の東西を見ると、東京の地形が見える
現在の田町駅で、三田口へ出てみます。
西へ歩けば、土地は上がっていきます。
三田。高輪。白金。
台地側です。
反対に芝浦口へ出る。
土地は低く、平らになります。
運河があり、その先には東京湾があります。
西には台地。
東には低地と、後の埋立地。
その間を、鉄道が南北に走っています。
さらに時間を100年ほど戻して、 田町・芝浦そのものがどう変わったのかを見ると、 現在の街並みと旧海岸線の関係がより分かりやすくなります。
田町駅を出たら、昔は海だった。|100年前の田町・芝浦を古地図から見る →
本芝――線路のすぐ横に、入り江があった
現在の田町駅北側、本芝公園付近。
ここにはかつて、 雑魚場と呼ばれる入り江がありました。
船が出入りし、水と街が接する場所でした。
現在は公園になり、周囲にはビルが建ち、 すぐそばを鉄道が走っています。
しかし1872年へ戻れば、
水がある。
船がある。
そのすぐ横を蒸気機関車が走る。
そして、ここから日本最初の鉄道は、 さらに大胆な場所へ入っていきます。
線路が、海へ出る。――高輪築堤
現在の田町駅北側付近から旧品川停車場方向まで。
約2.7km。
鉄道は、 海上につくられた築堤を走りました。
高輪築堤です。
単に「海岸沿いを走った」というだけではありません。
海の中へ鉄道用の土手を築き、
その上に線路を敷いた。
陸を通せないなら、海へ出す
高輪には陸地があります。
それなら陸側に線路を敷けばよさそうです。
しかし鉄道の線形は、地形だけでは決まりません。
そこには人が暮らし、道路があり、既存の土地利用があります。
高輪付近では用地確保が難しい区間がありました。
そこで選ばれたのが、
陸を通せないなら、海へ出す。
という方法でした。
浅い海へ土を盛る。
石を積む。
その上へ線路を敷く。
1870年から工事が進められ、 1872年には蒸気機関車がその上を走りました。
海を塞がず、水と船を通す――第七橋梁
海に長い築堤をつくれば、 陸側と海側の水の行き来を妨げます。
当時の高輪海岸には漁業があり、船があり、水路がありました。
そこで築堤には、 水路や船の通行を確保するための橋梁が設けられました。
その一つが、 第七橋梁です。
鉄道の上を蒸気機関車が走る。
その下を水が通る。
海と鉄道が、同じ場所にありました。
150年後、その石垣が高輪ゲートウェイで現れた
時間を2019年まで進めます。
品川駅改良工事の過程で、 地中から石垣が現れました。
調査によって、 高輪築堤の遺構であることが分かります。
東京の新しい街の足元から、
日本最初の鉄道が現れた。
現在の高輪ゲートウェイ周辺を歩いても、 高層ビルだけを見ていると、この歴史はほとんど見えません。
でも海岸線を戻し、築堤を重ねると、 街の見え方が変わります。
高輪を横から見ると、なぜ海を走ったのかが分かる
今度は地図を横から見ます。
高輪の西側には、20~30m級の台地があります。
一方、旧海岸線付近は低い。
その先は当時の海です。
鉄道は高輪の台地へ大きく登るのではなく、 その東側の低い場所を通り、 陸地を確保できない区間では海面近くに築堤をつくりました。
図|新橋から多摩川までの鉄道断面図
上段は新橋から多摩川までの鉄道路線の縦断イメージ。 下段は田町・高輪付近を西から東へ見た横断イメージです。 西側には20~30m級の台地があり、鉄道はそこへ大きく登らず、 東側の低い海岸部を通り、高輪では海上に築堤を築きました。
高い台地は、すぐ西にある。
でも列車は、そこへ登らない。
低く、緩やかな場所をつなぐ。
これが、図にするとよく分かります。
「平ら」と「地盤が良い」は、同じ意味ではない
ここは分けて考える必要があります。
鉄道が比較的平らな場所を走った。
だから地盤が良かった。
ということではありません。
海岸低地、浅い海、河川低地、後の埋立地。
その下には砂、粘土、シルトなど、 場所によって異なる堆積物があります。
① 地形
② 堆積物・地層
③ 建物・構造物の基礎
この三つは分けて見る必要があります。
「標高が低い=地盤が悪い」でもありません。
「台地=必ず安全」でもありません。
この記事の地盤・地層表現は、 地域の成り立ちを理解するための概略です。 個別の土地や建物の安全性を判定するものではありません。
品川――駅の東側は、海だった
高輪築堤を抜けると、 品川停車場です。
品川―横浜間では、 全線正式開業より先の1872年6月から仮営業が始まっていました。
その東京側の起点となったのが品川停車場です。
当時の停車場は、 現在の品川駅より少し南寄りの海岸沿い。
現在の品川駅を思い浮かべてみます。
西側は高輪口。
坂を上れば高輪の台地です。
東側は港南口。
現在は高層オフィスやタワーマンションが広がっています。
しかし1872年。
現在の港南側には、
海が広がっていた。
建物を消す。
埋立地を消す。
海を戻す。
すると、 高輪築堤と品川停車場の位置関係が見えてきます。
そして現在、その海だった側には港南の街が広がり、 田町・芝浦、高輪ゲートウェイ、品川、大井町まで、 鉄道を軸にした街の変化が再び進んでいます。
1872年から現在まで時間を進めて見ると、 品川・高輪ゲートウェイ・田町・芝浦・浜松町・大井町をつなぐ「広域品川圏」 という、現在の街の見方につながります。
品川から南へ――大井町・大森・蒲田
品川を出た列車は、さらに南へ進みます。
現在の大井町。
大森。
蒲田。
現在は大きな駅が並びますが、 1872年にはいずれも現在の駅はまだありません。
線路が先にあり、 駅と街が後から育っていきます。
大井町――西には起伏、鉄道はその東側へ
現在の大井町駅周辺を見ると、 西側・南西側には起伏があります。
品川区には武蔵野台地の東端部と、 そこを刻んできた谷地形があります。
鉄道はその高低差を大きく横断するのではなく、 東京湾側の比較的低く緩やかな場所を南下していきます。
つまり大井町も、 現在の駅だけを見るより、 西側の台地と東側の東京湾との位置関係から見ると、 街の成り立ちが分かりやすくなります。
そして面白いのは、 1872年には駅すらなかったこの場所が、 150年以上を経た現在、 再び鉄道を軸に大きく変わっていることです。
現在の大井町で何が起きているのか。 OIMACHI TRACKSと広域品川圏から街を見ると、 1872年から続く「鉄道と街」の関係が、現在までつながってきます。
大井町はどう変わった?|OIMACHI TRACKSと「広域品川圏」から街のこれからを見る →
大森――駅ができるのは4年後
大森駅が開業するのは、 1876年6月12日。
日本最初の鉄道の全線開業から約4年後です。
1872年の列車は、 まだ駅のない大森を通過しました。
その翌1877年には、 アメリカの動物学者エドワード・S・モースが、 横浜から新橋へ向かう列車の車窓から大森貝塚を発見したことで知られています。
鉄道が人を運ぶだけではなく、 東京の土地の過去を見る視点まで運んできた。
そんな場所でもあります。
蒲田――地形の主役が、多摩川へ変わる
さらに南へ。
現在の蒲田から六郷へ近づくと、 地形の主役が変わります。
多摩川です。
川は一本の水路だけではありません。
長い時間をかけて流路を変え、 土砂を運び、 その周囲に低地をつくります。
蒲田から六郷方面は、 比較的平坦な地形が続きます。
大きな山を越える必要はありません。
しかし、その先には東京編最大の水の障害があります。
多摩川――人は舟で、列車は橋で渡った
当時の多摩川下流は、 六郷川とも呼ばれていました。
高輪では海が鉄道を阻みました。
そこで築堤をつくった。
六郷では、大きな川が鉄道を阻みます。
ここでは、 橋を架けました。
六郷川橋梁です。
1872年の開業時は木造でした。
そして同じ1872年、 六郷では渡し舟も使われていました。
人は、舟で多摩川を渡る。
列車は、橋で多摩川を渡る。
江戸から続く移動と、 新しく始まった鉄道が、 同じ川に並んでいたのです。
木造だった六郷川橋梁は1877年、 鉄橋へ架け替えられます。
開業から、わずか5年。
鉄道を走らせながら、 日本の鉄道土木そのものも更新されていきました。
山を越えず、海と川を越えた
新橋。
浜松町。
田町。
高輪。
品川。
大井町。
大森。
蒲田。
そして、多摩川。
標高と地形を重ねると、 日本最初の鉄道の性格が見えてきます。
大きな高低差を避けた。
その結果、海と川に出会った。
高輪の台地へ登らない。
海へ出る。
築堤をつくる。
水路には橋を設ける。
さらに南へ進み、 多摩川には橋梁を架ける。
山を越えず、
海と川を越えて、東京は横浜へつながった。
そして、鉄道の周りに街ができた
1872年にはなかった駅があります。
浜松町。
田町。
大井町。
大森。
蒲田。
後から駅ができ、 人が集まり、 街が成長しました。
さらに東京湾側では埋立てが進みます。
芝浦。
港南。
大井ふ頭。
現在の地図を見ると、 鉄道の東側にも巨大な街があります。
しかし1872年には、 その一部はまだ海でした。
現在の街に鉄道を通した。
だけではありません。
場所によっては、
鉄道の周りに、後から現在の街ができた。
田町から大井町まで、一本の線で見る
この話は、 昔の鉄道だけで終わりません。
田町。
芝浦。
高輪ゲートウェイ。
高輪。
品川。
港南。
そして大井町。
1872年に海岸沿いを走った一本の鉄道の周辺で、 現在も街は更新されています。
高輪ゲートウェイ。
品川駅周辺。
田町・芝浦。
OIMACHI TRACKS。
現在の不動産を見るときも、 一つの駅だけで区切るのではなく、 田町から品川、大井町までを一つの広い都市軸として見ると、 街のつながりが見えてきます。
次に電車へ乗るとき、窓の外を見てみる
新橋を出る。
浜松町を通る。
田町を通る。
高輪ゲートウェイを通る。
品川へ入る。
大井町。
大森。
蒲田。
そして多摩川へ。
建物を消す。
埋立地を消す。
150年前の海岸線を戻す。
すると、 いつもの線路が違って見えてきます。
なぜ、鉄道はここを走ったのか。
その答えの一部は、 現在も線路の下にあります。
地形。
水。
地盤。
そして、 それを越えようとした人の技術です。
NEXT / KANAGAWA
多摩川の向こうは、神奈川です。
川崎、鶴見、神奈川宿、そして初代横浜駅へ。
東京側で海を築堤によって越え、 多摩川を橋で渡った列車は、 横浜へ入る直前、再び海と向き合います。
不動産は、物件から始めない。
地図を見る。
標高を見る。
水を見る。
地面の下を見る。
その土地が、どこから来たのか。
そこから街を見ると、
東京はもう少し面白くなります。
主な参考資料
・国立公文書館 鉄道開業関係資料
・港区 鉄道開業150年「港区と鉄道の夜明け」
・港区教育委員会 高輪築堤関連資料
・東日本旅客鉄道株式会社 高輪築堤関連資料
・国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所 六郷川・多摩川関連資料
※図中の旧海岸線・標高・地形・地質等は、歴史資料および地形資料をもとに、 街の成り立ちを理解するため概略化して表現しています。