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レインボーブリッジは、なぜ芝浦に架けられた?|お台場の歴史・建設工法・横浜ベイブリッジとの違い

地盤と、街のなりたち

レインボーブリッジは、なぜ芝浦に架けられた?

江戸の台場から東京湾要塞、建設工法、横浜ベイブリッジとの違いまで

田町・芝浦で仕事をしていると、レインボーブリッジは特別なものには見えなくなります。

芝浦から海側を見れば、そこにある。

夜になればライトアップされ、お台場へ向かう道路としても、東京湾岸を象徴する景色としても、すっかり東京の日常になっています。

でも、考えてみると不思議です。

なぜ、この場所にこれほど大きな橋が架けられたのでしょう。

そして、橋の向こうにある「お台場」は、そもそもなぜそこにあるのでしょう。

調べていくと、レインボーブリッジの歴史は1993年から始まる話ではありませんでした。

その約140年前。

江戸時代の終わりまで遡ります。

PART 1

レインボーブリッジが架かる前、この海は「守るための海」だった

1853年、ペリーがやって来た

1853年。

アメリカ東インド艦隊を率いたペリーが浦賀沖に来航します。

もちろん、それ以前から幕府は江戸湾の海防を考えていました。

しかし黒船来航によって、その問題は一気に現実のものになります。

外国艦隊が江戸湾へ入り、そのまま江戸へ接近する可能性がある。

幕府が急いで進めたのが、品川沖の海上砲台でした。

それが、

「御台場」

です。

現在の「お台場」という地名は、ここから来ています。

海の中に、砲台を造る

幕府が計画した台場は11基。

1853年8月に工事が始まり、第一・第二・第三台場は1854年までに完成しました。

その後、第五・第六台場、そして御殿山下台場が完成。

最終的には6基の台場が完成しました。

つまり現在、多くの人が観光や買い物で訪れる「お台場」の出発点は、

江戸を外国艦隊から守るための軍事施設

でした。

今のレインボーブリッジ周辺からは、かなり想像しにくい景色です。

結局、品川台場は戦わなかった

ただし、品川台場が実際の戦闘で外国艦隊と砲火を交えることはありませんでした。

やがて江戸幕府は終わり、明治時代を迎えます。

1873年には旧品川台場が海軍へ、その後は陸軍へ移管されました。

しかし、東京湾を海から守るという考え方そのものがなくなったわけではありません。

むしろ明治政府は、

防衛線を、もっと東京湾の外側へ移していきます。

品川から、観音崎・富津・猿島へ

明治になると、東京湾防衛の中心は湾口部へ移っていきます。

観音崎。
富津。
猿島。
そして、海堡。

東京湾の入口そのものを守るための巨大な防衛網がつくられていきました。

後にこれらは、

東京湾要塞

として整備されていきます。

江戸時代には、品川沖で江戸を守ろうとした。

明治になると、もっと遠くの東京湾口で首都を守ろうとした。

つまり、

東京の発展と軍事技術の変化に合わせて、防衛線そのものが海側へ移動していった。

ということです。

海の中に「島」を造る

東京湾要塞の中でも興味深いのが、海堡です。

海の中に人工島を築き、その上に砲台を造る。

特に第三海堡の建設は難工事でした。

波。

潮流。

水深。

海上土木として厳しい条件の中で工事が行われます。

ここで蓄積された技術は、日本の近代的な港湾・海洋土木の歴史を見るうえでも重要です。

東京湾は、

軍事施設を造る海であると同時に、日本が海上土木技術を蓄積していった場所

でもありました。

品川台場は、街の一部になっていく

一方、役割を終えた品川台場は少しずつ姿を変えていきます。

第三台場と第六台場は1915年に東京市へ移管。

1926年には史跡に指定され、第三台場は1928年に公園として開放されました。

そして1945年。

第二次世界大戦の終結とともに、東京湾要塞の時代も終わります。

ここは、少し重要です。

品川台場そのものが、幕末から1945年まで同じ役割で使われ続けたわけではありません。
「東京を海から守る」という思想が、品川沖から東京湾口へ場所を変えながら続いていた。
そう考える方が、この海の歴史を理解しやすくなります。

戦後、海の意味が変わった

戦争が終わると、東京湾の役割は大きく変わります。

守るための海から、

人と物を運ぶ海へ。

東京港は拡張され、埋立地が広がり、道路、倉庫、物流施設、工場が整備されていきます。

芝浦も同じです。

現在の芝浦だけを見ると、オフィスとタワーマンションが並ぶウォーターフロントです。

しかし、この土地自体が東京湾を埋め立てながら形成されてきました。

海だった。
埋め立てた。
港を造った。
鉄道を通した。
道路を造った。
そして、街になった。

レインボーブリッジも、この長い流れのかなり後ろに登場します。

東京湾と芝浦が、どうつくられてきたのか

レインボーブリッジが架かる以前の東京湾については、こちらの記事でも詳しくまとめています。

東京湾は、どこまで埋め立てられたのか。東京湾埋立ての歴史を見る →

田町駅を出たら、昔は海だった。田町・芝浦の歴史を見る →

東京は昔、どこまで海だった?|東京6,000年の歴史を見る →

では、なぜレインボーブリッジが必要になったのか

時代は大きく進み、1980年代。

東京湾岸では、さらに大きな都市開発が進みます。

臨海副都心です。

現在のお台場・有明・青海などの地域と、既存の東京都心をどう結ぶのか。

東京港を横断する新しい交通軸が必要になりました。

そこで建設されたのが、当時「東京港連絡橋」と呼ばれていた橋。

現在の、

レインボーブリッジです。

1987年に工事が始まり、1993年8月26日に開通しました。

ここで、東京湾の歴史が面白い形でつながります。

約140年前。

外国艦隊を江戸へ入れないため、この海に台場を造った。

そして1993年。

人と車を東京湾岸へ通すため、この海に橋を架けた。

同じ海です。

目的だけが、ほとんど正反対になりました。

江戸時代

人を「通さない」ための台場

↓

1993年

人を「通す」ための橋

PART 2

どうやって、東京湾に巨大な橋を造ったのか

レインボーブリッジを遠くから見ると、不思議なほど軽く見えます。

細いケーブル。

白い主塔。

その間に道路が浮いているようにも見えます。

でも当然、実際には巨大な構造物です。

レインボーブリッジの吊橋部分は約798m。

中央径間は570m。

主塔は海面から約126mの高さがあります。

巨大な橋を支えているのは、見えている部分だけではありません。

むしろ重要なのは、

海の下です。

海底のさらに下まで、基礎を造る

東京湾の海底に橋脚を置けば終わり、ではありません。

巨大な橋を支えるためには、その下にある強固な地盤まで基礎を到達させる必要があります。

そこで使われた代表的な工法の一つが、

ニューマチックケーソン工法

です。

名前だけ聞くと難しそうですが、基本的な考え方は面白いものです。

巨大な箱状の構造物の下部に作業室を設ける。

そこへ圧縮空気を送り込み、地下水の侵入を抑える。

その内部で地盤を掘削しながら、巨大な構造物を少しずつ沈めていきます。

橋は海の上だけにつくられているのではありません。

海底の、さらに下から造られている。

実際にレインボーブリッジを見るとき、このことを知っているだけでも見え方が変わります。

吊橋は、どうやって造るのか

レインボーブリッジは吊橋です。

基本的な構造を大きく分けると、

基礎を造る。
↓
主塔を造る。
↓
巨大なアンカレイジを造る。
↓
主塔と主塔の間にメインケーブルを渡す。
↓
メインケーブルからハンガーロープを下ろす。
↓
橋桁を吊る。

という構造です。

橋の両側にある巨大なアンカレイジは、メインケーブルから伝わる非常に大きな力を受け止めます。

遠くから橋を見ると、どうしても白い主塔へ目が行きます。

でも吊橋は、

主塔だけで立っているわけではありません。

ケーブル。

アンカレイジ。

基礎。

橋桁。

それぞれが力を分担して、巨大な橋を成立させています。

なぜ、これほど高い橋になったのか

レインボーブリッジが架かる場所は、普通の川ではありません。

東京港です。

橋の下には船舶が通ります。

一方で、東京港は羽田空港にも近い。

つまり橋を計画するうえでは、

船が通れる空間を確保すること。
東京港の機能を妨げないこと。
周辺の都市・交通条件に対応すること。

さまざまな制約の中で巨大な橋を成立させる必要がありました。

現在の美しい姿だけを見ると、最初から景観のためにこの形が選ばれたようにも感じます。

しかし橋の形は、

「この場所で橋を成立させるには、どうすればいいのか」

という土木上の条件から生まれています。

横浜ベイブリッジは、似ているようで違う

東京湾には、巨大な橋がいくつもあります。

代表的なのが、

横浜ベイブリッジ。
レインボーブリッジ。
鶴見つばさ橋。
東京ゲートブリッジ。

でも、構造は同じではありません。

横浜ベイブリッジは「斜張橋」

横浜ベイブリッジは1989年開通。

本牧ふ頭と大黒ふ頭を結んでいます。

レインボーブリッジより4年早く開通しました。

こちらは吊橋ではなく、

斜張橋

です。

主塔から斜めに伸びたケーブルが、直接橋桁を支えます。

レインボーブリッジでは、大きく弧を描くメインケーブルから橋桁を吊る。

横浜ベイブリッジでは、主塔から橋桁へケーブルが直接伸びる。

遠くから見ても、ケーブルの形がかなり違います。

鶴見つばさ橋も「斜張橋」

1994年に開通した鶴見つばさ橋。

大黒ふ頭と扇島方面を結び、京浜港の物流を支える重要な橋です。

これも斜張橋です。

レインボーブリッジが東京の都市景観を象徴する橋だとすれば、横浜ベイブリッジや鶴見つばさ橋は、港湾物流との関係が非常に強い橋でもあります。

東京ゲートブリッジは、さらに形が違う

2012年に開通した東京ゲートブリッジ。

若洲と中央防波堤外側埋立地を結んでいます。

特徴的なのが、あの形です。

恐竜が向かい合っているようにも見えることから、「恐竜橋」と呼ばれることもあります。

東京港が沖へ広がっていくにつれて、新しい物流道路が必要になった。

その結果として生まれた橋です。

4つの橋を比べる

橋 開通 主な構造 主な役割・特徴
横浜ベイブリッジ 1989年 斜張橋 本牧ふ頭と大黒ふ頭を結び、横浜港の交通・物流を支える
レインボーブリッジ 1993年 吊橋 芝浦と臨海副都心を結び、道路・ゆりかもめ・歩行者が通る
鶴見つばさ橋 1994年 斜張橋 京浜港の物流ネットワークを支える
東京ゲートブリッジ 2012年 トラス橋 若洲と中央防波堤外側埋立地を結び、東京港の物流を支える

4つの橋は、東京湾が広がった歴史でもある

年代順に並べると、面白くなります。

1989年 横浜ベイブリッジ
1993年 レインボーブリッジ
1994年 鶴見つばさ橋
2012年 東京ゲートブリッジ

橋を単独で見ると、巨大な土木構造物です。

でも地図の上で見ると、

港と都市が海側へ広がるたびに、新しい橋が必要になった。

ことが分かります。

横浜港。

京浜港。

東京港。

臨海副都心。

中央防波堤。

埋立地が増え、港が沖へ移り、人と物の移動が増える。

そのたびに、海を越える交通路が必要になる。

橋は、

都市の成長を後から追いかけるように架けられてきました。

レインボーブリッジだけが、少し違って見える理由

その中でも、レインボーブリッジは少し特殊です。

物流だけの橋ではありません。

首都高速道路。
一般道路。
ゆりかもめ。
そして、歩行者。

複数の交通機能が、一つの橋に重なっています。

しかも、芝浦とお台場という性格の違う二つの街を結んでいます。

東京港のインフラであると同時に、

東京という都市そのものを見せる橋

にもなりました。

だからレインボーブリッジは、単なる道路橋以上の存在になったのでしょう。

ここまで調べたら、実際に歩いてみます。

資料で歴史と構造を調べるだけでは、まだ分からないことがあります。

芝浦側からレインボーブリッジへ入り、実際に歩いてお台場へ。
主塔とケーブルを近くで見て、橋の上から第三台場を見る。
そして、普段とは反対側から芝浦を振り返ってみます。

第3部は、「実際に歩くレインボーブリッジ」です。

東京湾の歴史を、もう少し深く

レインボーブリッジの背景には、東京湾の埋立て、芝浦の成り立ち、そして東京そのものが海から形成されてきた歴史があります。

東京湾は、どこまで埋め立てられたのか →

田町駅を出たら、昔は海だった →

東京は昔、どこまで海だった?|東京6,000年史 →

不動産は、物件から始めない。

街を見る。土地を見る。歴史を見る。

そして最後に、その一件を見る。

そろそろ、

お客様のお話を。

0120-238-760

株式会社 blue blooded|田町・芝浦サロン

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