
多摩川は、東京の街をどうつくったのか|河岸段丘・国分寺崖線・等々力渓谷・多摩川台古墳群
多摩川は、東京の街をどうつくったのか 河岸段丘・国分寺崖線・等々力渓谷・多摩川台古墳群
二子玉川を歩いていると、不思議なことがあります。
多摩川のすぐ近くなのに、少し内陸へ入るだけで急に坂が現れます。
上野毛、瀬田、岡本方面へ向かえば、その高低差はさらに明確になります。
私は以前、この高低差のかなりの部分を、人間が洪水を防ぐためにつくった「土手」のようなものだと思っていました。
ところが東京の地形を調べていくと、話はまったく違いました。
これは、多摩川が長い時間をかけてつくってきた地形です。
そして、その地形を追っていくと、二子玉川だけではありません。
等々力渓谷、上野毛、瀬田、田園調布、多摩川台古墳群。
さらに多摩川を渡った神奈川県側の二子新地、高津、溝の口、その先の津田山や梶ヶ谷方面まで、一つの大きな地形として見えてきます。
現在の住所や駅名だけを見ていると、それぞれ別の街です。
しかし、その下にある地形を見ていくと、 これらの街が多摩川という一本の川によってつながっている ことが分かります。
現在の多摩川だけを見ても、多摩川は分からない
現在の多摩川を見ると、当然ながら「川」は水が流れている場所だと思います。
しかし、地形という長い時間軸で見ると、現在の河道は、多摩川がつくってきた土地のほんの一部分です。
川は同じ場所をまっすぐ流れ続けてきたわけではありません。
蛇行し、流路を変え、周囲を削り、ときには大量の土砂を運びながら、長い時間をかけて地形そのものを変えてきました。
洪水のたびに水が広がる場所もあれば、川によって削られる場所もあります。
一方で、運ばれてきた砂や礫が堆積する場所もあります。
そうした作用が何千年、何万年という時間の中で繰り返されてきました。
そのため、現在の多摩川からかなり離れた場所にも、かつての川の作用を読み取れる地形が残っています。
多摩川は「一本の水の流れ」ではなく、
その周囲に広い地形をつくってきた川なのです。
RIVER TERRACE
そもそも「河岸段丘」とは何なのか
川の周辺を歩いていると、低い土地のすぐ横に、突然一段高い土地が現れることがあります。
こうした地形を理解するための重要な言葉が、 河岸段丘です。
川は、いつも同じ高さを流れているわけではありません。
長い時間の中では、川が土地を横方向に削る時期もあれば、より深く下へ削り込んでいく時期もあります。
かつて川が流れていたり、川の作用を受けて形成された平坦な面が、その後の侵食によって現在の川より高い場所に取り残される。
すると、
高い平坦面
↓
急な斜面
↓
低い平坦面
↓
現在の川
という階段のような地形が現れます。
これが河岸段丘を理解する基本的なイメージです。
ただし、実際の東京の地形は教科書の模式図ほど単純ではありません。
支流が谷を刻み、低地には土砂が堆積し、その上に道路や鉄道、住宅地がつくられています。
だから現在の街を歩いただけでは、巨大な地形の全体像が見えにくくなっています。
二子玉川の「崖」は何なのか
二子玉川から上野毛・瀬田方面を見ると、土地が一段高くなっています。
この高低差を理解するうえで重要なのが、 国分寺崖線です。
国分寺崖線は、武蔵野台地の南西側を縁取るように続く長い崖線です。
二子玉川周辺だけに存在する崖ではありません。
立川・国分寺方面から世田谷を経て、大田区方向まで続いていきます。
武蔵野台地はどこからどこまでか|地盤と埋没谷 でも詳しく見ていますが、武蔵野台地は多摩川と荒川に挟まれた広大な台地で、その縁や内部には河川が刻んだ谷が入り込んでいます。
国分寺崖線は、その武蔵野台地と多摩川側の低い土地との境界として、現在の街の中にもはっきり残っています。
つまり、二子玉川で見える大きな高低差のすべてを「人工的につくられた土手」と考えるのは正確ではありません。
その背後には、多摩川と武蔵野台地が長い時間をかけてつくった巨大な地形があります。
「河岸段丘」と「国分寺崖線」は、どう違うのか
ここで、言葉を一度整理しておきます。
この記事のタイトルには 「河岸段丘」 という言葉を入れています。
一方、二子玉川や田園調布で実際に目にする大きな高低差については、 「国分寺崖線」 という言葉が何度も登場します。
この二つは、まったく別々の話ではありません。
河岸段丘は、川がつくった階段状の地形全体を理解するための言葉です。
一方、崖線は、その段差の境界として現在の地表に連続して見えている急斜面を捉える言葉です。
河岸段丘という「地形の成り立ち」を考え、
崖線という「現在見えている境界」を歩いてみる。
こう考えると、二子玉川の坂が突然別のものに見えてきます。
単なる「坂道」ではなく、多摩川と武蔵野台地がつくった長い地形の境界なのです。
では、対岸の神奈川県側はどうなっているのか
ここで一つ疑問が生まれます。
多摩川が土地を削ってきたのであれば、対岸の神奈川県側にも同じような高い地形があるのでしょうか。
あります。
ただし、ここが面白いところです。
東京側と神奈川県側の地形は、鏡に映したような左右対称ではありません。
二子玉川から多摩川を渡ると、まず二子新地があります。
その先に高津、溝の口などの比較的平坦な土地が続きます。
現在の多摩川からすぐに大きな崖が立ち上がるわけではありません。
さらに内陸へ進み、津田山、梶ヶ谷、宮前平方面へ向かうと、ようやく土地は大きく高くなっていきます。
ここから先に広がっていく大きな地形が、 多摩丘陵や下末吉台地などの高地です。
つまり現在の多摩川と、神奈川県側の高い土地との間には、かなり広い低地があります。
これが今回の地形図で最も見てもらいたいところです。
なぜ、多摩川と神奈川県側の高台はこんなに離れているのか
現在の多摩川だけを見ると、川幅は限られています。
しかし、昔の多摩川が現在の河道だけを使っていたわけではありません。
川は蛇行しながら流路を移動し、洪水を繰り返し、周囲を削ったり土砂を堆積させたりしてきました。
ここで重要なのは、 昔の多摩川そのものが常に数kmもの幅を持っていた、という意味ではない ことです。
長い時間の中で、川が活動してきた範囲が広かったということです。
その結果、二子玉川から溝の口周辺を見ると、現在の河道を含む広い低地が残っています。
東京都側
武蔵野台地
↓
国分寺崖線
↓
多摩川低地
↓
現在の多摩川
↓
広い多摩川低地
↓
神奈川県側の高地
多摩丘陵・下末吉台地など
この断面を見ると、 現在の多摩川は、大きな低地の中を流れている一本の河道にすぎない ことが分かります。
今見えている川だけを見るのではなく、その周囲に残された地形まで見る。
そこまで視野を広げて初めて、多摩川が東京と神奈川につくった地形の大きさが見えてきます。
だから、等々力には「渓谷」がある
この地形を理解すると、もう一つ不思議だった場所がつながります。
等々力渓谷です。
東京23区の住宅地の中に突然現れる深い谷。
なぜ、この場所だけあれほど深く土地が切れ込んでいるのでしょうか。
等々力渓谷を流れているのは谷沢川です。
谷沢川による侵食によって、武蔵野台地には深い谷が刻まれています。
しかし、等々力渓谷の成り立ちには、さらに興味深い問題があります。
谷沢川は、昔から現在とまったく同じ方向へ流れていたとは限らない。
等々力周辺では、かつて東方向へ流れていた河川の流路が変化し、谷沢川が現在のように多摩川方向へ流れるようになったと考える説があります。
その説明の一つが、 「河川争奪」 です。
河川争奪とは、ある川の谷が上流方向へ侵食を進め、隣を流れていた別の川の流れを取り込んでしまう現象です。
一方、等々力渓谷の形成については、自然の河川争奪だけではなく、人為的な流路変更が関係したとする考え方もあります。
つまり、現在の段階では単純に一つの原因だけで断定するより、 谷沢川の流路そのものが変化してきた可能性を持つ地形 として見る方が面白く、そして慎重でしょう。
武蔵野台地。
国分寺崖線。
多摩川低地。
そして、その地形をさらに深く刻んで多摩川へ向かう谷沢川。
等々力渓谷は、東京の地形の歴史が今も目の前に露出している場所の一つなのです。
等々力から上野毛、瀬田、二子玉川へ
地図だけを見ていると、等々力、上野毛、瀬田、二子玉川はそれぞれ別の街です。
しかし地形から見ると、これらの街には共通点があります。
国分寺崖線です。
坂のある場所。
高台になっている場所。
湧水が見られる場所。
緑が残っている場所。
こうした特徴の背景には、同じ地形があります。
国分寺崖線では、急斜面だったため大規模な宅地化を免れた場所もあり、現在まで緑地が残っている場所があります。
また台地に浸透した水が崖の途中から湧き出す場所もあります。
地形と水と緑は、それぞれ別々のものではありません。
一つの地形が、現在の街の景観にも影響しているのです。
地形の上に、鉄道を重ねてみる
そして、この地形の上に現在の交通網を重ねると、また違った東京が見えてきます。
東急大井町線は、大井町から自由が丘、等々力、上野毛を経て二子玉川へ。
東急田園都市線は、渋谷方面から二子玉川へ入り、多摩川を越えて溝の口、さらに多摩丘陵へ向かっていきます。
二子玉川は、地形の境界であると同時に、現在では二つの鉄道路線が交わる場所でもあります。
街を行政区や駅名だけで見るのではなく、地形と鉄道でつなげてみる。
すると、普段見ている東京とは少し違う東京が現れます。
二子玉川から田園都市線で、多摩丘陵へ
さらに田園都市線を西へ進んでみます。
二子玉川で多摩川を渡り、二子新地、高津、溝の口へ。
このあたりまでは、多摩川がつくった低地の性格を強く感じます。
しかし、そこから梶が谷、宮崎台、宮前平、鷺沼へ進むにつれて、車窓や駅周辺の高低差は大きくなっていきます。
そして、たまプラーザ、あざみ野、市が尾、藤が丘、青葉台へ。
青葉台まで来ると、街の地形は二子玉川とはかなり違って見えます。
青葉台は武蔵野台地ではありません。
多摩丘陵の上につくられた住宅地です。
武蔵野台地の縁にある二子玉川から、多摩川低地を越え、多摩丘陵の住宅都市へ。
田園都市線を地形の上に重ねて見ると、一本の鉄道がまったく異なる地形を結んでいることが分かります。
さらに下流へ行くと、多摩川台古墳群がある
そして、この話をさらに面白くする場所があります。
多摩川台公園です。
東急線の多摩川駅からほど近い、多摩川を見下ろす高台にあります。
ここには、 亀甲山古墳、宝莱山古墳、多摩川台古墳群 が残されています。
しかも、これらは同じ時期に一斉につくられたものではありません。
宝莱山古墳は、荏原台古墳群の中でも早い時期につくられた前方後円墳です。
亀甲山古墳は4世紀後半頃の築造と推定され、全長107メートルあまり。
多摩川流域を代表する大規模な前方後円墳です。
さらに時代が下ると、その周辺にも古墳が築かれていきます。
多摩川台公園の古墳展示室では、4世紀から7世紀にかけての古墳文化を知ることができます。
つまり、多摩川を見下ろすこの高台は、長い期間にわたって繰り返し重要な場所として使われてきたことになります。
ここが面白いところです。
川がつくった地形の上に、人間の歴史が重なっているのです。
なぜ古墳は、多摩川を見下ろす高台にあるのか
もちろん、古墳がこの場所につくられた理由を、現在の私たちが地形だけから一つに断定することはできません。
しかし、その立地には注目すべき特徴があります。
低地より高い。
多摩川と、その周囲の低地を見渡すことができる。
逆に多摩川側から見れば、高台に築かれた大きな古墳は目立つ存在だったはずです。
多摩川は単なる水源ではありません。
人や物が移動する空間であり、その周辺には古くから人々の生活がありました。
川を見下ろす高台という地形そのものが、人間にとって意味を持っていた可能性があります。
自然がつくった高低差。
その高い場所を選んだ古代の人々。
そして、その同じ高台に現在の街があります。
古墳の高台から、田園調布の住宅地へ
そして時代が大きく下ると、この多摩川沿いの高台には別の価値が生まれます。
住宅地としての価値です。
田園調布、等々力、上野毛、瀬田。
現在では東京を代表する住宅地として知られる場所が、国分寺崖線とその周辺に連なっています。
そして多摩川を越えれば、多摩丘陵には田園都市線に沿って新しい住宅都市が形成されていきました。
もちろん、現在の住宅地としての評価を地形だけで説明することはできません。
鉄道、道路、都市計画、開発の歴史、街区、教育環境など、さまざまな要因があります。
それでも、 高台と低地という東京・神奈川の基本的な地形が、街の形成に大きく関わってきた ことは見逃せません。
「坂」は邪魔なものではなく、東京の履歴書かもしれない
不動産を見ていると、坂はしばしば単純な条件として扱われます。
駅から坂がある。
高低差がある。
自転車では少し大変。
もちろん、それらは実際の生活では重要です。
しかし坂を地形として見ると、その意味は変わります。
その坂は、なぜそこにあるのか。
その上と下では、なぜ街の雰囲気が違うのか。
なぜ緑が残っているのか。
なぜ湧水があるのか。
なぜ古墳がそこにつくられたのか。
そして、なぜ鉄道がこの場所を通り、その先に住宅地がつくられたのか。
一つずつ追っていくと、現在の街並みの下から、昔の東京と神奈川の姿が浮かび上がってきます。
坂は、街の欠点ではなく、
その土地が歩んできた時間の痕跡でもあります。
多摩川は、今流れている場所だけが「多摩川」ではない
二子玉川の河川敷に立って多摩川を見ると、目の前を流れている水が多摩川のすべてに見えます。
しかし少し視点を引いてみると、景色は変わります。
東京都側には武蔵野台地と国分寺崖線。
その途中には等々力渓谷。
下流には多摩川を見下ろす多摩川台古墳群。
対岸には二子新地、高津、溝の口へ続く広い低地があり、そのさらに先には多摩丘陵や下末吉台地などの高い地形があります。
そして現在では、その地形を鉄道と道路が横切り、その上に街が広がっています。
川そのものは細くなっても、
川がつくった地形はずっと広く残っています。
現在の街だけを見ていると、それはなかなか分かりません。
けれど坂を上り、崖を見て、渓谷を歩き、古墳のある高台から多摩川を眺めると、それらが一つの地形としてつながっていることに気づきます。
多摩川は、ただ東京と神奈川の境を流れている川ではありません。
東京の土地を削り、低地をつくり、高台との境界を残し、
その上に人々が街をつくってきた。
そう考えると、いつもの街が少し違って見えてきます。
RELATED STORIES
地形・歴史・鉄道から、東京を読む
blue blooded
不動産は、物件から始めない。
街を知ること。
土地を知ること。
その土地が、どのようにできたのかを知ること。
地形を知ると、
いつもの街が少し違って見えてきます。
先に、お話を。