東京の高級住宅街はなぜ坂の上に多い?|麻布・赤坂・番町・白金・城南五山の歴史と地盤の画像

東京の高級住宅街はなぜ坂の上に多い?|麻布・赤坂・番町・白金・城南五山の歴史と地盤

地盤と、街のなりたち

麻布、赤坂、番町、白金台、目白台、城南五山。

東京の高級住宅街を歩いていると、不思議な共通点があります。

坂が多い。
駅前ではない。
商店が少ない。
そして、驚くほど静かです。

一方で、渋谷、新宿、池袋、新橋、品川など、東京の巨大な街は鉄道駅を中心に発展してきました。

普通に考えれば、駅に近く、人が集まり、商業施設が多い場所ほど価値が高くなりそうです。

ところが東京の伝統的な高級住宅街には、むしろ逆の場所が少なくありません。

なぜ東京の高級住宅街は、
坂の上と、駅から少し離れた場所に多いのでしょうか。

その理由を調べていくと、江戸の大名屋敷、明治の華族や財界人、皇居、鉄道、そして現在のタワーマンションまでが、一本の線でつながってきます。

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高級住宅街になる前、そこには何があったのか

現在の高級住宅街だけに、大名や武士が住んでいたわけではありません。

江戸には広大な武家地があり、そのほかにも町人地、寺社地、農地、街道沿いの町など、さまざまな土地利用がありました。

したがって、

「大名屋敷があったから、現在も高級住宅街である」

だけでは説明できません。

むしろ面白いのは、その後です。

江戸に無数に存在した武家地の中で、なぜ一部だけが現在まで高級住宅地として残ったのでしょうか。

麻布・赤坂――大名屋敷から、明治の邸宅街へ

江戸時代の麻布には、長州藩毛利家、米沢藩上杉家、盛岡藩南部家などの屋敷があり、その周囲には旗本・御家人の屋敷、寺社、町地、畑地も混在していました。

赤坂にも、紀州徳川家、広島藩浅野家、福岡藩黒田家、松代藩真田家、盛岡藩南部家などの大規模な屋敷が置かれていました。

しかし明治維新で幕府がなくなると、武家地は一度大きく揺れます。

武士が東京を離れ、荒廃した土地もありました。

その一方で、旧武家地の一部は皇族・華族の邸宅、政府施設、軍用地などへ転用されました。明治20年代以降には、麻布・赤坂に華族、政財界人、官員、軍人などが居住し、「山の手」の邸宅地へ変化していきます。

つまり、江戸時代の住人がそのまま残ったわけではありません。

大きな土地を、少人数で使う。

その土地利用の性格が、別の時代の有力者へ受け継がれた場所があったのです。

番町――「大名の町」ではなく、将軍を守る旗本の町

番町は少し性格が違います。

ここは江戸城の西側を守る大番組などの旗本が配置された武家地でした。

つまり番町は、江戸城のすぐそばにつくられた武家の住宅街です。

明治維新で幕臣の町としての役割は終わりますが、皇居と政府中枢に近いという場所そのものの価値は消えませんでした。

時代が変わると、政治家、官僚、華族などの邸宅地として新しい性格を持つようになります。

江戸城を守る武家地から、皇居に近い邸宅地へ。

番町には、東京の中心が江戸から明治へ変わっても消えなかった「場所の力」が見えてきます。

目白台――肥後細川家の屋敷と、神田川を見下ろす高台

目白台も、現在の景観と江戸の土地利用が重なって見える場所です。

現在の肥後細川庭園・永青文庫周辺には、幕末に肥後熊本藩細川家の下屋敷がありました。

その周辺には清水家、一橋家などに関係する土地もあり、近くの関口では、旧久留里藩下屋敷の土地を明治になって山県有朋が取得し、椿山荘を築きます。

神田川の低地から目白台へ上がると、現在でも急な坂があります。

川沿いの低地から坂を上り、その上に大きな屋敷と庭園を置く。

目白台が突然、高級住宅街になったわけではありません。

江戸から明治へ、土地の使い方そのものに連続性が見える場所なのです。

白金・高輪、そして城南五山

高輪周辺にも、土佐藩山内家、徳島藩蜂須賀家、熊本藩細川家、久留米藩有馬家など、多くの大名屋敷がありました。

ただし、現在の白金全域が大名屋敷だったわけではありません。白金村には農地などもあり、武家地と村落が隣り合っていました。

城南五山も、それぞれ成り立ちが違います。

池田山には備前岡山藩池田家の下屋敷。

島津山には江戸時代、仙台藩伊達家の下屋敷があり、明治になって島津家の土地となります。

一方、花房山は明治の外交官・花房義質の邸宅、御殿山は将軍家に関係する御殿、八ツ山は近代になると岩崎家の邸宅などと関係していきます。

出自は違っても、最終的には低密度で緑の多い邸宅地という似た性格へ集まっていきました。

そして明治5年、東京に鉄道が走った

1872年、日本最初の鉄道が新橋―横浜間に正式開業します。

その前に品川―横浜間が仮開業していました。

興味深いのは、その鉄道が東京のどこを走ったかです。

江戸城の西側に広がる武家地を横断するのではなく、新橋から芝・高輪・品川へ、東京の南東側を進みました。

高輪付近では、海岸沿いの土地を避けるように海上へ築堤を築き、その上に鉄道を通した区間さえありました。

さらに新橋停車場そのものも、龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家、会津藩松平家などの旧大名屋敷跡を収公してつくられています。

ここには、江戸から明治への劇的な転換が見えます。

西側には、旧武家地から続く邸宅地。
東側には、鉄道によって生まれる近代都市。

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江戸城が「皇居」として残ったこと

そして東京を考えるうえで、もう一つ大きな存在があります。

皇居です。

江戸幕府はなくなりました。

しかし江戸城は、巨大な商業地に転換されませんでした。

皇居として、東京の中心に残ったのです。

その周囲には旧武家地があり、明治政府の官庁、皇族・華族の邸宅、軍事施設などが置かれました。

一方、鉄道はその周囲を結びながら東京を拡大していきます。

こうして東京には、

江戸から続く権力の中心と、
鉄道によって生まれた近代都市。

二つの都市構造が重なることになります。

なぜ一部の旧武家地だけが、高級住宅街として残ったのか

もちろん、武家地のすべてが高級住宅街になったわけではありません。

大名屋敷跡が大学になった場所があります。

官庁になった場所。

軍用地になった場所。

公園になった場所。

商業地になった場所もあります。

その中で一部の土地は、華族、政治家、官僚、軍人、財界人などの邸宅として使われました。

麻布では、複雑な地形と街道から外れた立地によって大規模な道路改良が限定的となり、江戸時代の道路網や旧武家地の土地形状を比較的残しながら住宅地化した場所もあります。

つまり、

東京が発展していく中で、
「発展しすぎなかった場所」が住宅地として残った。

駅から離れていることは、本当に不便なのか

鉄道の時代になると、駅前には人が集まります。

商店、飲食店、オフィス、ホテル。

土地の利用密度が高くなり、街は賑やかになります。

しかし住宅地として考えれば、それは必ずしも長所だけではありません。

駅から少し離れる。

坂を上る。

商業施設がなくなる。

通り抜ける必要のない道になる。

すると、その街に住んでいる人と、その人を訪ねる人以外が入ってくる理由が減ります。

高級住宅街は、驚くほど静かです

元麻布、白金台、目白台、城南五山などを実際に歩くと感じることがあります。

驚くほど静かです。

車が少ないだけではありません。

人そのものが少ない。

商店が少ない。

オフィスも少ない。

その街に用事のない人が、わざわざ入ってこない。

これは「駅から遠い」という一見不利に見える条件の、もう一つの側面です。

鉄道から少し距離を置いたことが、結果として商業化や高密度化を抑え、住宅地としての静けさを残した場所があるのではないでしょうか。

田園調布と成城は、江戸から続く住宅地ではない

ここで興味深いのが、田園調布と成城です。

この二つは、麻布や番町のように江戸の武家地を直接継承した高級住宅地ではありません。

田園調布では1923年に土地分譲が始まり、成城でも1920年代に新しい住宅地づくりが進みました。

つまり、人間が近代になって「良い住宅地とは何か」を考え、意図的につくった街です。

広い敷地。

緑。

低層住宅。

商業地との適度な距離。

低密度な街並み。

面白いことに、

江戸から残った邸宅地と、近代になって計画された高級住宅地が、似た住環境へたどり着いた。

そして現代、タワーマンションは逆の答えを出した

現代の東京には、もう一つの高級住宅があります。

タワーマンションです。

タワーマンションは、駅、スーパー、飲食店、オフィスなど、都市の集積そのものを利用します。

人が集まる場所から離れるのではありません。

その代わり、上へ行きます。

30階、40階、50階。

地上の喧騒から垂直方向へ距離を取り、眺望、採光、プライバシーを得る。

タワーマンションは、都市の中で静けさをつくる。

高級住宅街は、街そのものを静かにする。

どちらが上という話ではありません。

東京という巨大都市との距離の取り方が違うのです。

低層高級マンション、タワー、戸建て

現代の高級住宅を大きく見ると、三つの方向があります。

麻布、白金台、番町、城南五山などの低層高級マンション。

都心・湾岸のタワーマンション。

そして戸建てです。

低層高級マンションは、建物だけでなく「街」を買うという性格が強い。

タワーマンションは、都市機能、交通、眺望まで含めて「都市」を買う

戸建ては、自分の土地に、自分の住まいをつくる。

同じ「高級住宅」でも、求めているものはかなり違います。

高台だから、すべて良いわけではありません

ここまで読むと、「高台なら地盤も良く、高級住宅地になる」と見えるかもしれません。

しかし、実際の土地はそれほど単純ではありません。

台地の中にも谷があります。

埋められた川があります。

盛土があります。

同じ町名でも地形や地盤条件が変わることがあります。

高級住宅街というブランドと、個々の土地の地盤評価は分けて考える必要があります。

400年前の権力者が選んだ土地を、いま私たちは買っている

江戸の大名や旗本。

明治の華族、政治家、官僚、財界人。

大正の田園都市。

そして現代の低層高級マンションとタワーマンション。

時代も、身分も、交通手段も変わりました。

それでも人が住まいに求めるものには、意外なほど共通する部分があります。

静けさ。

緑。

光。

空間。

そして、人との距離。

東京の高級住宅街を理解する鍵は、
「どれだけ便利か」だけではなく、
「便利な東京と、どのくらい距離を取るか」なのかもしれません。

次回

なぜ東京の鉄道は、ここを走ったのか。

1872年、新橋―横浜間に日本最初の鉄道が開業しました。

その線路は芝を通り、高輪では海の上に築堤を築き、品川へ向かいます。

では、なぜ鉄道はそこを走ったのでしょうか。

江戸の海岸線、武家屋敷、東海道、田町・芝浦、高輪築堤、品川駅。

次回は、東京の鉄道と街の成り立ちを、現在の不動産までつなげて考えます。

不動産は、物件から始めない。

先に、お話を。

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